一体何のことやら意味のわからないタイトルですが、ぜひ最後までお付き合いください。
イタリア大好きな父マルコ。生涯にわたって世界史を学び、現役時代は高校で世界史を教えていました。
ジュリエッタも高校生のときに世界史を学んだはずですが、
勉強することを放棄してしまった高校時代
遊ぶことしか考えていなかった高校時代
を過ごし
そういうわけで、カノッサの屈辱と言われてもピンと来ませんでした。
父マルコは3人の娘を順番にイタリアへ連れて行ってくれました。
長女コンチエッタは高校生の時にマルコと二人旅へ。
次女フィオリーナも高校生の時にマルコと二人旅へ。
三女ジュリエッタは中学生の時にマルコとアンナと三人旅へ。
そして高校生の時にもマルコと二人旅へ。
ジュリエッタの中学生の時のイタリア旅行は末っ子特典というやつです。
この高校生の時の二人旅の思い出です。
父マルコは「カノッサの屈辱の地へ行きたい。」
と強く思っており、カノッサの屈辱が何なのかもわからない
ジュリエッタと二人で
カノッサを目指して旅しておりました。
カノッサの屈辱とは聖職叙任権をめぐって対立していたローマ教皇グレゴリウス7世に対して
ローマ王ハインリヒ4世が1077年1月25日から3日間に及んで、雪が降る中、カノッサ城門にて
裸足のまま断食と祈りを続け、教皇に破門の解除と許しを請うた事件です。
結果、グレゴリウス7世はハインリヒ4世の破門を解きました。
ここからは、ジュリエッタの解釈ですが。
ハインリヒ4世が、自分の力を強めたいために
自分の言いなりになる司祭を偉い司教に次々と任命しちゃって、
本来は司教を決める権利は教会にあるんだぞ!って怒っちゃったグレゴリウス7世が
ハインリヒ4世に対して「破門するぞー。皇帝権剥奪するぞー。」とほのめかしたら、
そしたらハインリヒ4世も怒っちゃって、
勝手に教皇の廃位を宣言してしまったんだって。
めっちゃめちゃ喧嘩したんだね。
ところがどっこい、ハインリヒ4世のことをよく思っていなかった人たちがいっぱいいて、
これをチャンスと思い
ハインリヒ4世に反旗を翻し、1077年2月2日までに破門が解かれない場合は
会議を開いて新しいローマ王を決めます、ということを決めた。
ちゃんとグレゴリウス7世に謝らないと王位から突き落とされることになってしまって、
やばい!ってなったハインリヒ4世は
会議が行われるアウクスブルクに向かう途中だったグレゴリウス7世を追いかけていき、
グレゴリウス7世がカノッサ城に滞在していることを知り、カノッサ城へ行った。
グレゴリウス7世は突然やってきたハインリヒ4世にびっくりして、城から出ようとしなかったけど、
ハインリヒ4世が武器を全て置いて、修道士の服装に身を包んで城の前で赦しを求めたため、
3日後には破門を解くことにして、ローマへ戻った。
ということです。
赦してもらえてよかったね。
でもものすごく屈辱的な事件で
「無理やり屈服、強制されて謝罪すること」の慣用句としてカノッサの屈辱という言葉は用いられているようです。
とても勉強になりました。
今ならカノッサの屈辱について詳しく説明できそうです。
一休さんは、華叟に弟子入りを願い入れ、断られても、
雪の降るなか、5日間、門の前に座り続けたそうですね。
6日目の朝、華叟和尚に門の前で「水をかけて追い払え。」と命じられた
弟子に水をかけられ、体の芯まで冷え切った一休さんはそれでも動かなかった。
そして昼頃に帰ってきた華叟和尚に弟子入りを許してもらったという話があります。
ハインリヒ4世より
一休さんの方がすげえや。
って思っちゃったことは秘密。
話は戻り、カノッサを目指していたマルコとジュリエッタ。
無事にカノッサに到着しました。
ジュリエッタはよくわかりませんでした。
到着したと言っても、普通の街で、どこがその
屈辱の地なのか、見当たらないのです。
マルコもちょっとキョトンとした顔をしていました。
タクシーの運転手さんに聞いて
車を下ろしてもらったので、間違いはないはずです。
道ゆく人にマルコは聞きました。
「カノッサの屈辱の地はどこですか。」
みんな返事はしてくれましたが、
「わからないわ。」という感じです。
しばらく諦めずに聞き回っていたマルコですが
「もういっかな。」となりました。
ホテルのチェックインの時間が迫ってたのかも。
時間的に、もう探してられないな、という感じでした。
結局、父マルコが行きたかったカノッサの屈辱の地には辿り着けず、
戻ることになりました。
そしてタイトルに戻ります。
カノッサの屈辱の地へ行けなかった父マルコの
雪辱を果たすために
イタリアへ言ってカノッサの屈辱が起こった場所へ
行きたい!!
という意味のこもったタイトルでした。
私たちはあの時、カノッサにちゃんと行っていたのでしょうか。
全然違う場所にいたのでしょうか。
カノッサの謎は深まるばかりです。
でも、普通に観光地にたどり着くように
カノッサの屈辱の地へ行けていたら
こんなに記憶に残っていなかったと思います。
なぜだか分からないけど、たどり着けなかったし、
マルコと右往左往して
二人でちょっとキョトンとした顔をしたからこそ
今でもこれだけカノッサの屈辱のことを
覚えているのかなと思います。
でもさ、現地のイタリアの方々が
カノッサの屈辱の地をあまり認識していないとしたら
それもかなりの屈辱だよね。
ハインリヒ4世にとっては!