アウグストゥス 前63~後14


初代ローマ皇帝:シーザー(カエサル)が暗殺されると遺言に従って養子となった。共和政末期の混乱の中で第二回三頭政治に参画、アントニウスとクレオパトラとの戦いに勝利、彼らの遺体を並べて埋葬、カエサリオンを処刑した。31歳から76歳まで初代ローマ皇帝として善政を行い、水道・神殿を建て、ローマの美化に努めた。「粘土のローマを大理石のローマにした」と自ら誇った。彼の像はイタリア各地で見られる。60越えたころより体調を崩し疑心暗鬼となり親衛隊を創設、将来の禍根をまいた。

アリダ・ヴァリ 1921~2006


女優:トリエステ郊外の街、オーストリア人の父とイタリア人の母 の間に生まれる ”映画実験センター演技科”で学び、女優となる。49年イギリス映画『第三の男』で一躍国際スターに躍り出ました。枯木の並木道を歩く哀感漂う姿は映画史に残りました。多くの出演作の中でもヴィスコンティ監督作品『夏の嵐』での伯爵夫人役は迫真の演技で監督の期待に応えました。イタリア映画女優第一世代はアンナ・マニャーニとアリダ・ヴァリに代表されるでしょう。



アドルフォ・チェリ 1922-1986


シチリア・メッシーナ生まれ ローマの演劇アカデミー演出科を卒業 南米サンパウロで映画の監督を行ったが国際的に知られるようになったのは、『007サンダーボール作戦』で悪役ラルゴを演じてからである。

 プラチナブロンドと特異なマスクによってフランス・イギリス・アメリカ映画、に多数出演するようになった。

 主な作品:『華麗なる激情』『ブラザー・サン・シスタームーン』『黄金の七人 7×7』『グランプリ』

1986 心臓発作で死去

 

アメリゴ・ヴェスプッチ 1454-1512


フィレンツェ、古い商人の家系 コロンブス第3回航海の装備調達 水先案内人兼指揮官 ヨーロッパ人がアマゾン河口とブラジルに初めて接触した1499の航海

 セビリヤには地図製作者の共同体があり大洋航海を行う帆船が入港していた。1507マルティン・ミューラーは自身の世界地図において、アメリカを独立した

 大陸として示し、その表題にヴェスプッチの名前をつけた。

 



アニタ・エクバーグ 1931-2015


ウェーデン マルメ生まれ16歳のとき写真モデル 52年度ミス・ユニヴァースのスウェーデン代表として渡米 スカウトされボブ・ホープの海外駐留米軍の慰問ショー

に加わり人気を得た 雑誌モデルを経てグラマー女優として売り出し、1960フェリーニ監督の「甘い生活」で圧倒的な印象を残した。以後、主にイタリアで活躍 アンソニー・スティールと結婚・離婚

一児あり。身長175㎝

 

 

アレクサンデル6世 在位1492-1512


ペイン カタルーニャ出身

ロドリーゴ・ボルジア 叔父の教皇カリストゥス3世に勧められてボローニャで法学学ぶ 枢機卿、大司教 教皇へと出世したが多くは買収によるもの。即位後も多数の私生児をなし、息子のチェザレ・ボルジアと権謀術策を用いて教皇領を拡大その死については政敵の毒殺をはかったが誤って自分が毒にやられた、という説がある。教皇庁の財力で芸術家の保護、学問の推進(ローマ大学援助)・スペインとポルトガルの境界を確定1493・ルクレツィアの父・フィレンツェの修道士サヴォナローラの破門など、悪評のほうが圧倒的に多い。



アルキメデス 前287-212


シチリア・シラクサ生まれの数学者・物理学者 兵器(投石機など)の改良をして第2回ポエニ戦争ではローマ軍

を悩ました。シラクサの僭主ヒエロン2世に、王冠の金の純度の鑑定を求められて浮力と比重の原理「アルキメデスの原理」

を思いついた。ローマ軍侵入時、地面に描いた図形の考察中に誤って殺されてしまい、ローマの司令官もその非業の死を惜しんだそうです。

アントニウス 前82ー30


共和政ローマの政治家・将軍 カエサルのガリア遠征に従軍、前44年カエサルが暗殺されると追悼演説で雄弁をふるって人気を得た。翌43年第2回三頭政治に参加、カエサルの暗殺者(ブルータスら)グループを倒した。反アントニウスの演説をしたキケロを追放・暗殺した。東方遠征でエジプトに寄った時、プトレマイオス朝クレオパトラ(7世)と出会いその虜となった。妻であるオクタヴィアヌスの姉オクタヴィアと離婚したことで対立が深まり前31年アクティウムの海戦で敗北、アレクサンドリアで自殺した。



アンドレオッティ 1919-2013

ジュリオ・アンドレオッティ政治家 出生地ローマ 3人兄弟の末っ子 ローマ大学 法律 卒業後 キリスト教民主主義

1946下院議員 冷戦下 最大の反共保守政党 外相・国防省・首相7回 一貫して親西側、米の姿勢)を保った。多くのマフィアがらみの事件に関わったと言われれが証拠不十分で実刑判決はなかった。冷戦後1992年首相の座を追われ1994年キリスト教民主主義は解党した。シチリアマフィアのドン・サルヴァトーレ・リイナとの癒着容疑で起訴された。捜査中のファルコーネ裁判官の暗殺、モーロ元首相誘拐と殺害にも関与が疑われ続けた。終身国会議員として2013亡くなるまで活動した。

アントニヌス・ピウス 86-161 (位138-161)

ローマ皇帝 五賢帝の1人 要職を歴任して功績があり、ハドリアヌス帝に後継者に指名されて養子となった。即位に際して元老院から「ピウス(敬虔な人)」という称号を与えられたが、その名の通り穏健で慈愛に富み元老院とも協調した。公共建築物の造営、港湾整備、財政の健全化、キリスト教徒迫害の禁止、学者の優遇などを果たし、内外とも平安で「パックス=ロマーナ(ローマの平和)」を謳歌した。またブリタニアでは国境を北進させて長城を築いた。

 






アルベルティ 1404-72

人文主義者、建築家。 追放されたフィレンツェ市民の子としてジェノヴァに生まれる。フィレンツェでブルネレスキと出会い、遠近法理論を初めて説明した『絵画論』1435をブルネレスキに献呈。他に『建築論』などの著作多数。フィレンツェのルチェライ邸、リミニのテンピオ・マラテスティアーノなど多数の建築も設計。ルネサンスの典型的な「万能の天才」。

 

アンナ・マニャーニ 1908-73

エジプト、アレクサンドリア生まれ。父はエジプト人。5歳のとき一家はローマに移り、子供の頃から志していた女優になるため15歳で演劇アカデミーに入る。その後、レビュー・ガールとして多くの劇団を転々とし、34年映画デビュー、初期の作品は歌を生かしたコメディが多い。映画出演のかたわら軽演劇の舞台でも活躍した。彼女の名を一躍世界的にしたのはロベルト・ロッセリーニ監督「無防備都市」45からで路上でナチに射殺される中年女性ピーナの名演は映画史に残る。55年にはハリウッドに招かれバート・ランカスター共演「バラの刺青」に主演、アカデミー主演女優賞を得た。34年結婚42年一子ルカをもうけたが50年離婚。73年9月26日、ローマの病院で膵臓がんのため死去。ちなみにこの日は、初めてのテレビ映画マストロヤンニ共演「1870年」放映日だった。戦後イタリア映画を支えた強力な担い手であり、イタリアが生んだ最大の性格女優だった。

主な作品:噴火山の女49、ベリッシマ51、バラの刺青55、サンタ・ビットリアの秘密69、フェリーニのローマ72

 



イルネリウス ?-1130頃

ボローニャの学校において『ローマ法大全』について初めて講義をおこなった教師。単語に註釈をつけて講義をおこない、中世ローマ法学の最初の担い手である。1000年頃までに3科の学校として知られていたボローニャの学校で、法学は修辞学の一分野として教えられていたが、その後、独立した学問となった。

インノケンティウス3世 1160頃-1216

ローマ教皇権絶頂期の教皇(在位1198-1216)。教皇を太陽、皇帝を月にたとえたことで知られる。離婚問題でフランス王フィリップ2世に聖務停止を命じ、カンタベリ大司教の任命問題でイングランド王ジョンを破門。その権威は全ヨーロッパに及ぶ。異端カタリ派に対してアルビジョワ十字軍を提唱する一方でフランチェスコ会、ドミニコ会を認可。彼が招集した第4ラテラノ公会議1215は中世最大の公会議。




ヴァザーリ 1511-74

画家、建築家、美術史家 アレッツォ出身 フィレンツェでメディチ家の庇護をうけ、ウフィッツィ宮(現ウフィッツィ美術館)を設計。芸術家としては二流であったがチマブーエからミケランジェロにいたる画家・彫刻家・建築家数百人の伝記を記録した『芸術家列伝』の著者として高名。この大著で古代芸術の再生ルネサンスの概念を導入する。

ウァレンス 328-78(位364-78)

ローマ皇帝 ウァレンティニアヌス1世の弟。兄の意向で共治帝として即位し、帝国東部を担当。376年にフン族の西進に圧迫されたゴート族を帝国領内に受け入れ、後にゴート族が反乱を起こすと、その鎮圧に向かったがハドリアノポリスの戦いで戦死した。



ウァレンティニアヌス1世 321-75 (位364-75)

ローマ皇帝 イリュリクム出身の軍人で軍の合議で皇帝に選出され、ニカイアで即位。ウァレンスと帝国を分担統治し、自身は帝国西部を担当。その治世のほとんどすべては、激化するゲルマン民族の侵入防戦のために費やされた。クァディ族の使節を謁見している最中に激昂し卒中で死去。

ウァレンティニアヌス3世 419-55 (位425-55)

ローマ皇帝 コンスタンティウス3世とホノリウスの妹ガラ・プラキディアとの間の子で、ホノリウスの死後、帝位を簒奪したヨハンネスを東ローマ帝国の軍事的援助を得て倒し、帝位に就いた。帝国統治の実権は彼には終始なく、433年以後は将軍アエティウスがその実権を握った。



ヴィットリオ・デ・シーカ 1901-74

ローマの南ソーラに生まれる。父はナポリの銀行員であり、幼児から父の任地を転々とし、11歳でローマに来た。家計を助けるため第一次大戦中から戦後にかけてアルバイトをしながら高等商業を卒業した。子供の頃から舞台に関心を見せ、除隊後の1920年代、各劇団に参加した。映画俳優として『ナポリのそよ風』1937などで爆発的な人気を得た。映画監督にデビューすると『靴みがき』46、『自転車泥棒』48によって、社会の底辺に生きる庶民の悲惨さを描き、ネオ・レアリズモの巨匠として世界に知られるようになった。

ヴィヴァルディ 1678-1741

作曲家 ヴァイオリン奏者 ヴェネツィア、サン・マルコ大聖堂のヴァイオリン奏者だった父のもとに育ち、幼いうちからヴァイオリンが得意だった。15歳で下級聖職者になり、1703年司祭に叙任された。同年、ヴェネツィアのピエタ養育院のヴァイオリン教師に就任、1711年には協奏曲集《調和の霊感》が出版され作曲家としての名声が広まった。1725年、有名な《四季》を含む《和声と創意の試み》が世に出て、彼の名声は一挙に高まった。しかし、1740年を境に公の舞台から姿を消し、同年秋に家財を整理して旅立った。ウィーンの聖シュテファン教区で貧民葬をもって葬られたことが判明したのは1938年のことだった。



ヴィテリウス 15-69 (位69・4・16-12・22)

ローマ皇帝 最大の難点は大食漢だったこと。日に4回、途方もないごちそうを貪った。1回の饗宴に2000匹の魚、4000羽の鶏が提供され客たちを驚かせた。味にもうるさく、カワカマスの肝臓、キジの脳みそ、フラミンゴの舌などを好み、これら珍味のために軍艦を派遣するほどだった。ヴィテリウスが帝位につくと間もなく中東の軍団がウェシパシアヌスを皇帝に擁立すると他の軍団も追随していった。ウイテリウス軍の兵士たちは善戦したが、最終的には敗走、ウィテリウスはローマで身を隠していたが発見されて絞首刑となった。ウェシパシアヌスはその年の暮れ12月6日に皇帝となったため、69年は後に「四皇帝の年」とよばれるようになった。四皇帝とはガルバ、オトー、ウィテリウス、ウェスパシアヌスである。

ウェスパシアヌス 9-79  (位69-79)

ローマ皇帝 皇帝就任時は60歳、軍人として出世してきた彼は規律と節倹を重んじ、頑健だった。軍部と財政の再建をはかって、自分と同じ地方属州出身の将軍たちにすべてを任せた。税収を増やすために公衆便所を発明、使用する者は料金を払い、使わない者は罰金を払わねばならなかった。今でもイタリアでは街角の公衆便所をヴェスパジアーノと呼んでいる。息子ティトゥスを可愛がり、人生修行のためにパレスティナ暴動の鎮圧に赴かせた。アウグストゥス以後最善の治世を10年おくったあと泉の水を飲んだことがきっかけで最後を迎えた。三日三晩、激痛に耐えたあと立ったまま世を去った。



ヴェルディ 1813-1901

作曲家 ジュゼッペ・ヴェルディの生地レ・ロンコーレはパルマ県ブッセートの郊外3㎞にある寒村で、父カルロは宿屋兼食料品店を営んでいた。7歳でサン・ミケーレ教会のオルガニストに師事したが、1年後には師を越えるまでになった。10歳のときブッセートに移り聖バルトロメオ教会学長の教えを受ける。1832年奨学金を得て、ミラノ音楽院入学を希望するが不許可となる。1836年、恩人の娘マルゲリータと結婚、1男1女を得るも、ともに薄命で40年には妻も失う不幸に見舞われる。こうした中で書かれた第3作《ナブッコ》は大成功を収めた。その劇的な音楽、力強い合唱によって、当時オーストリアの圧政下にあったミラノの人々に強い感銘を与えた。この頃のヴェルディを支えたのは後に結婚するプリマ・ドンナのジュゼッピーナ・ストレッポーニだった。最後の《フォルスタッフ》まで全26曲のオペラ作品を残し、現在も世界のオペラ・ハウスのレパートリーに入り続けている。1897年、妻ジュゼッピーナが没し、落胆した彼自身も1901年1月、旅先のミラノのホテルで倒れ世を去った。享年87歳。主要作品:《ナブッコ》1842:《二人のフォスカリ》1844:《マクベス》1847:《群盗》1847:《海賊》1848:《レニャーノの戦い》1849:《ルイザ・ミラー》1849:《リゴレット》1851:《トロヴァトーレ》1853:《トラヴィアータ1853:《シチリア島の夕べの祈り》1855:《シモン・ボッカネグラ》1857:《仮面舞踏会》1859:《運命の力》1862:《ドン・カルロス》1867:《アイーダ》1871:《オテッロ》1887:《フォルスタッフ》1893

ヴェルガ 1840-1922

小説家 ジョヴァンニ・ヴェルガ シチリア、カターニアで誕生 カターニア大学で法律を学ぶも関心は文学であり、社会的な出来事だった。祖父がリソルジメントの時期にカルボネーリア(炭焼き党)党員であったことが影響している。フィレンツェ、ミラノへの転居を経て

1894年、生家に帰郷した。多くの短編小説のなかで故郷シチリアの田舎に生きる人々の生活行動を、その情景描写も含めて「事実を示し、事実に真実を語らせる」手法で著した。特にその中の一篇『カヴァレリア・ルスティカーナ(田舎騎士道)』はマスカーニによってオペラ化された。長編小説には『マラヴォリア家の人々』1881がある。ヴェルガの文学は真実主義ヴェリズモと呼ばれ、ネオ・リアリズム文学の原点となり、パヴェーゼやヴィットリーニの指標となった。



ヴェルギリウス 前70-前19

古代ローマ最大の詩人。北イタリアのマントヴァ近郊に生まれる。アウグストゥスの知己を得、その側近マルケナスの庇護を受けて試作に励んだ。ホメロスに範をとったローマ建国の長編叙事詩『アエネイス』や牧歌『ブコリカ』農耕詩『ゲオルギガ』などがあり、中世からルネサンスにおいても古典として愛唱された。

ヴィルナ・リージ 1937-2014

アンコナ生まれ父は貿易商。当初、計理士を志していたが、ローマの商工業大学在学中にフランチェスコ・マゼッリ監督に見出され、53年「巷の恋」でデビュー。その後、62年「エヴァの匂い」で主役級に選ばれてから脚光を浴び、国際的な女優となった。ハリウッドで第二のジーン・ハーローとして肉体派女優として存在したが後に演技派として新境地を開いた。建築家と結婚し一男あり。  主な作品:黒いチューリップ63、ゴールデン・ハンター64、25時、クリスマス・ツリー67、サンタ・ビットリアの秘密67、雨のエトランゼ70



ウンベルト・エーコ   1932-2016

小説家 哲学者 記号学者 北イタリア、ピエモンテ州アレッサンドリアで生誕 トリノ大学で中世美学、トマス・アクィナスを研究。卒業後、イタリア放送協会RAIの文化番組や出版社の評論部門の仕事に参加、協力。ミラノ、フィレンツェの大学で教鞭をとったあと、ボローニャ大学に移り記号論学者として国際記号学会会長を務めた。主な著書:『薔薇の名前』 『プラハの墓地』 『フーコーの振り子』 『エーコの文学講義-小説の森散策』 『バウドリーノ』 『ヌメロ・ゼロ』



オトー 32-69 (位69・1・15-4・15)

ローマ皇帝 親衛隊によって選ばれて皇帝となったが終わりは早く訪れた。彼はガルバの倹約ぶりを否定し、協力者の兵士や役人たちに褒章をはずんだ。また市民には気前よく剣闘士の見世物を提供した。しかし、ゲルマニアの軍団はローマに向かって進軍しつづけ、オトーを倒して指揮官のウィテリウスを皇帝の座につけようとした。北イタリアで敗北して自殺したが、死に当たって「帝国が内乱に陥るのを防ぐためには自分が死ぬしかないと言った」という。予期しない高潔な言葉を聞いた護衛兵のなかには感動のあまり彼の遺体が荼毘に付される際の炎に身を投げた者もいたとか。

オドアケル 433?-493

476年のゲルマン人傭兵の指導者として反乱を起こし、皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位し、西ローマ帝国を滅ぼした人物。以後、ラヴェンナにあってイタリア半島、アドリア海を挟んだ対岸ダルマティア地方も支配したが、493年に東ローマ皇帝ゼノンの差し向けた東ゴート王テオドリックによって倒された。