ローマ共和政末期の政治家 名門パトリキの出。マリウスと縁戚関係だったため彼の失脚後、スラの迫害を避け小アジアに一時逃れた。スラの死後、政界に復帰、前69年財務官就任を皮切りに元老院議員として官職を歴任。前60年ポンペイウス、クラッススを誘い三頭政治をおこない、自らはガリア遠征に向かった。しかし、この遠征中にポンペイウスに嫁いでいた娘のユリアが没し、クラッススが東方で戦死すると三頭政治は崩壊し、ポンペイウスとの軍事衝突へと至った。前49年、ルビコン川を越えてガリアからイタリアに侵入したカエサルはポンペイウスを追いエジプトに入った。その地でプトレマイオス朝の内紛に介入しクレオパトラを王位につけた。前45年には地中海を平定。帰国したカエサルはディクタトルとして専権を振るい、ユリウス暦の導入など画期的な事業を数多くおこなったが、共和政の伝統をないがしろにしたため、前44年、ブルトゥスら共和派の元老院議員たちによって暗殺された。文人、雄弁家としても名高く、『ガリア戦記』をはじめとする優れた作品を残した。
女性神秘家 シエナで染色業者の娘として生まれ、ドミニコ会の修道女となる。その神秘的体験で注目を集め、様々な人々が集まって「カタリナ会」が生まれた。イタリアの都市間の紛争解決に奔走するとともに、アヴィニヨン教皇グレゴリウス11世にローマ帰還を嘆願し、大シスマ開始後はローマのウルバヌス6世を擁護した。多くの書簡と著書『対話』を遺した。
政治家 サルデーニャ王国首相(在位1852-61)イタリア王国初代首相(在位1861)。トリノの名門貴族出身 イギリスに留学し議会政治に触れる。『リソルジメント』誌をバルボらと発刊1847し、立憲主義を唱道。王国議会に選出1848され、ダゼリオ内閣で農商相、海相、蔵相を歴任。52年、首相に就任し近代化に努めるとともに外交面で活躍。クリミア戦争に参戦して国際的地位を高め、ナポレオン3世とプロンビエール密約1858を結んで、サヴォイア・ニースを割譲するかわりにイタリア統一戦争の協力を得る。61年、イタリア王国が成立すると初代首相となるも、完全統一の直前に死去。
エラズモ・ダ・ナルニ パン屋の息子 傭兵隊長がどうして蜜で甘くなった(愛想のいい)雌猫という意味のあだ名を持ったのか定かではない。頑強で実直。
パドヴァ出身 フィレンツェと教皇庁に仕えた後、1434年、ヴェネツィアで下級司令官として任務についた。ミラノ:ヴィスコンティ家との戦争では冷静で臨機応変の指揮ぶりが高く評価され、没時には総司令官になっていた。 ヴェネツィア共和国は国葬にし騎馬像(パドヴァ 大聖堂前 ドナテッロ作)の費用を出した
物理・天文学者、フィレンツェ貴族の家系 医学を学ぶためにピサ大学 数学に魅了され1585フィレンツェに戻る 1589ピサ大学教授 1592 パドヴァ大学数学教授職 1604落体の法則。オランダから届いた光学機器に有効なレンズを組み合わせ望遠鏡をつくった。月の地形凸凹 木星の衛星 土星の形(土星も輪)太陽の黒点などを発見 コペルニクスの地動説を証明 1616第1次宗教裁判でコペルニクス的な宇宙論をやめるよう命じられた。1633第2次宗教裁判 投獄・破門、数か月後、釈放されるが幽閉・監視 没後350年 1992年教皇庁は破門を解いた
ローマ皇帝 ティベリウスは弟ドルーススの遺児ゲルマニクスの子ガイウスを後継者に指名。ガイウスは遠征中の陣中で生まれ、幼児から兵隊靴カリグラをはかされていたので、兵士たちからその愛称で呼ばれた。貧民への思いやり、民会の権限復活、軍人としての勇気には定評があった・・・が突然の変身は分裂症を患ったためらしい。毎朝何時間も鏡の前で百面相にふける、急にエジプト文明に耽溺しローマの風俗をエジプト化しようとする。ある朝目を覚ますと禿頭アレルギーになっていた。禿頭の者を見つけては競技場の猛獣の中に投げ込んだ。ある日突然哲学者が嫌いになると、すべての哲学者を処刑や流刑にした。助かったのは病身ですぐ死ぬと思われていたセネカだけ。皇帝を暗殺したのは親衛隊長だった。
ローマ皇帝 ネロに代わって元老院によって皇帝に選ばれた。部下の将軍を連れてゲルマニアからローマに凱旋する際、通過する町すべてに貢物を要求、独り占めした。兵士らは皇帝に絶対服従を誓っているのだから賄賂を渡して忠誠心をかう必要はないと考えていた。人間性に対する理解が全くなく、致命的な失策だった。見世物に公金を浪費しないという禁欲的な姿勢は、何世紀もそのような娯楽を自らの権利と見なすようになっていたローマ市民からは支持を得ることができなかった。ゲルマニア駐留軍が反乱を起こし、総督ウィテリウスを皇帝に擁立、この知らせがローマに伝わり、大混乱となった。親衛隊によって暗殺された。
17世紀最大の画家 ロンバルディア地方カラヴァッジョ生まれ 殺傷事件のからんだ短い人生 36年の生涯 革新的な芸術 劇的な明暗法による一極集中
人物を画面の最前景に突出させて観るものを圧倒する 画の枠組みいっぱいに場面を描くことで注意を集中させ演劇的な臨場感や親近感を増す 人物の動きの瞬間的な特質、移ろいゆく時の流れの予期せぬ一瞬を凝固させる 視覚的な刺激のみならず演劇性をも与えることに成功した唯一の画家 観るものを圧倒せずにはおかない。
ローマ皇帝 イリュリクム出身で293年に東方正帝ディオクレティアヌスの副帝として即位。305年、東方正帝に昇格、主にバルカン半島と小アジアを担当した。副帝時代には、ディオクレティアヌス
の片腕として数々の軍事的功績をあげ、正帝になってからは崩れていくテトラルキア体制の維持に努めた。狂信的な異教徒でディオクレティアヌスにキリスト教徒迫害を強く勧めたとされる。311年、死の床でキリスト教寛容令を出した。
作家 1923-85 「文学の魔術師」と呼ばれる。作家 イタロ・カルヴィーノ 20世紀イタリアの国民的作家 キューバ、ハバナ近郊で生まれ、まもなく両親とイタリアに戻りサンレモで暮らす 父親が農学者だった影響もあり、1941年トリノ大学農学部。ファシズム時代末期、ムッソリーニ失脚後はパルチザンとして1945年のイタリア解放までアルプス山中で活動した。戦後は文学部に編入、卒業後は出版社で仕事をする一方、イタリア共産党に入党、機関紙「ウニタ」の編集にも関わった。パルチザン体験を書いた長編小説『くもの巣の小道』以来、グリム童話のイタリア版『イタリア民話集』など小説家、児童文学作家、評論家として活躍、ハーバード大学での講義原稿(急逝により未使用)が『カルヴィーノ』の文学論として出版された(1988)。
古代ローマの政治家・著作家
政治家として共和政末期のローマで活躍した。カティリーナ事件が起きると貴族・元老院の側に立って行動した。
ラテン語の美しい文章を残し、ギリシア思想のローマへの移入に貢献した。「味方に対しては良き友、自分の虚栄
に対しては全くの無自覚で、完全無欠な文章にして後世に残したため読者はあやうくこの欠点を美徳と思いかねない」と言われる。カエサルの暗殺の後、反アントニウスの立場をとったため暗殺された。
初期ルネサンスのフィレンツェ最大のブロンズ彫刻画家 生涯の大半をフィレンツェ大聖堂付属洗礼堂のブロンズ浮彫パネルの制作に捧げた 1401年のコンクール《イサクの犠牲》で僅差でブルネレスキを破った ミケランジェロに「天国の門」と呼ばれる。ゴシック的着衣の流麗で線的な形態と、古典様式に基づく人物像や群像を巧みに結びつけている。旧約の世界を含む古代を黄金時代とするルネサンスの古代解釈のひな形である。同じくフィレンツェのオルサンミケーレ聖堂の《洗礼者ヨハネ》《聖マタイ》《聖ステファーノ》のブロンズ彫像3体を制作、古典的性格が一層強まっている。
イギリスの歴史家 祖父の代に財を成した富裕な家に生まれ、1774年からは庶民院議員を務め政治家としても活躍したが82年に公職を失って以後、スイスのローザンヌに隠棲。『ローマ帝国衰亡史』がその主著で、
五賢帝時代からビザンツ帝国の滅亡までのローマ史が優れた文体と史眼で著されている。刊行直後から現在に至るまで高い評価を受けているが、ローマ衰亡の一因にキリスト教を挙げたため一部の読者からは激しい非難を受けた。
北アフリカ・チュニスで誕生 両親はイタリアからの移民、子供の頃は教師を志望していたが地元の映画祭の催しだった美人コンテストに当選したのがきっかけで映画の世界に入った、デビュー作はマニオ・モニチェリ監督作品だった(日本未公開)、その後ピエトロ・ジェルミ監督の「刑事」から始まり、「ブーベの恋人」を経て数々のヴィスコンティ作品に出演、愁いを含んだ瞳とエレガントな雰囲気が多くのファンを捉えた。BBブリジット・バルドーに対してCCと呼ばれた。
ともに親衛隊に殺害された暴虐の皇帝カリギュラとネロのあいだの第4代皇帝である、小児麻痺による動作・言語の不自由さによって母親さえ誰かの悪口を言う時は「私の可哀そうなクラウディウスよりなお、おばかですわね」と言っていたほど彼は一家の中で最も目立たない存在だった。だからこそ生き延びたのだ。50歳で皇帝となると元老院に出席して「私はうすのろのふりをしていた」と演説、みなを驚かせた。公共事業、ブリタニア遠征、解放奴隷層からの人材登用、など知恵を発揮した。
しかし、連れ子のネロの栄達にすべてを賭けていた五度目の妻アグリッピーナには思うように扱われ、毒キノコによって殺害された。
ローマ共和政末期の政治家。はじめスラ派の政治家として現れ、マリウス派の財産没収の際に巨額の富を得た。スパルタクスの反乱の鎮定に功績をあげ、前70年にポンペイウスとともにコンスルになり、スラの体制を覆した。前60年にカエサル、ポンペイウスとともに三頭政治の一角を担った。前55年には再びコンスルとなり、翌年からシリア属州を担当し、パルティア征服を目論み遠征をおこなったが、戦死した。
イタリア共産党の指導者、思想家。サルデーニャ島出身。トリノ大学で学友だったトリアッティらとともにイタリア共産党を創設(1921)し、機関紙『ウニタ』を創刊(1924)。党中央委員・党書記長として反ファシズム運動を展開するも、ファシスト政権に逮捕され(1926)、死期間近に釈放される(1937)。戦後、政治・歴史・芸術などに関する膨大な『獄中ノート』が刊行され、マルクス主義思想の古典として高く評価される。
政治家 首相1983-87 イタリア社会党書記長(第12代)を歴任。ミラノで反ファシスト運動に関わった弁護士の息子として出生。イタリア社会党の学生組織で頭角を現し、1968年に初当選して政界入り。1976年に総選挙で大敗した社会党の建て直しのために書記長に選出される。マルクス・レーニン主義が優勢であった党内体質を改め現実路線に切り替えた。1983年に社会党から初の首相に就任、賃金の物価スライド制(スカラモービレ制)を廃止するなど経済改革に取り組み長い間の停滞状態からの脱却と経済成長を実現した。またローマ教皇とコンコルダート(政教和約)を改訂し、国家と教会の不干渉を確認すると共にカトリックの国教としての地位を削除させた。外交政策でも欧州統合に取り組み、1992年のマーストリヒト条約締結への道筋をつける。1987年まで2期4年首相の座にあったが、これは1945年以後のイタリア首相ではデ・ガスペリに次ぐ長さとなった。(その後、シルヴィオ・ベルルスコーニがこの記録を塗り替えている)。しかし1990年代、汚職事件に関与したとして捜査の対象となったため、チュニジアに逃亡、そのままイタリアに帰国することなく心臓発作で亡くなった。
レオ1世とともに「大教皇」と呼ばれる。ローマの富裕な貴族に生まれ、ローマ市長官になったが聖職を志し、修道士を経て教皇に選出(位590-604)。アウグスティヌスを送ってブリタニア伝道の先鞭をつけるなど、ゲルマン人への布教を積極的に進めた。ローマ市の疫病や飢饉の救援や敵対するランゴバルド族との交渉にもあたった。数多くの著作は神学に大きな影響を与え、「最後のラテン教父」とされる。彼が収集・編纂したと伝えられる聖歌集がグレゴリア聖歌で、これによって西ヨーロッパの聖歌が統一された。多くはラテン語の歌詞で和声も楽器による伴奏もない単旋律の歌である。
11世紀後半の教会改革を推進した教皇。トスカーナ地方で生まれ、ローマで勉学、レオ9世の招きで改革者集団に加わる。アレクサンデル2世の後を受けて教皇(在位:1073-85)となり、シモニア(聖職売買)と聖職者妻帯を禁じるとともに教皇権の王権に対する優位性を主張。ミラノ大司教選任問題で対立した皇帝ハインリヒ4世を破門し、カノッサで謝罪させた(カノッサの屈辱)が、態勢を立て直した皇帝にローマを追われ、南伊のサレルノで死去。
哲学者、歴史家、政治家。ナポリ出身。ローマ大学卒。終身上院議員に選ばれ(1910)、文相(1920-21)も務めたが、ファシスト政権成立後は公職を退き、自由主義の立場から反ファシズムを貫き、その後は王政に反対して自由党を指導。彼の創刊した『批評』誌上で活発な発言を行う一方、多数の歴史書・哲学書を残した。
作曲家 アルカンジェロ・コレッリはボローニャで音楽家として成長し、、1670年代ローマで活躍、ローマを世紀の変わり目におけるヨーロッパ音楽の中心地のひとつにした。スウェーデン女王クリスティーナのサークルにも加わった。作品の数は少ない(6集の器楽曲と少数の他の作品)が、生前も死後も比類のない影響を与えた。作品が少ない理由は自分の作品に対して入念な選択・校正を行い、残りの作品は遺言によって破棄されたからである。形式・様式・器楽のテクニックに及ぼした影響はイタリア、特に彼が人生の初期を過ごしたローマで最も強く感じられ、やがて国境を超えて広がった。ヴァイオリン教師、器楽合奏指導者として当時には珍しく厳格で、18世紀の更なる進歩の土台を築いた。
航海者。「新大陸」の発見者。ジェノヴァ出身。貿易商として航海の経験を積むうちに西回りでアジアに行く計画をたてる。マルコ・ポーロの『世界の記述(東方見聞録)』が彼の夢をかきたて、知人トスカネリの地球球体説がその夢に現実味を与えた。1483年、ポルトガル王に西航の計画を提案したが拒否されたため、86年、スペインのイサベル1世に提案し、92年のグラナダ陥落後ようやく女王の援助を得て計画が実現に至る。92年8月3日、3隻の船でパロス出港、10月12日、バハマ諸島のサン・サルバドール島に到着。生涯に合計4回の航海を重ねたが、死ぬまで到達地をアジアの一部と信じていた。
ローマ皇帝、父親マルクス・アウレリウスと共同統治3年を経て180年、父親の死とともに単独の皇帝となった。同時代の歴史家カッシウスは「ローマ人にいかなる悪疫や犯罪よりも大きな呪いをもたらした。」と述べた。コンモドゥスのなみはずれた理不尽さはとても表現しきれない。神として崇拝されることを期待し、とくに、自らを英雄ヘラクレスに重ねあわせていた。彼はこの英雄の姿をまねて棍棒を手に持ち、ヘラクレスがしとめたライオンになぞらえたライオンの皮をかぶって公の場に現れた。178年コンモドゥスと結婚した美貌をうたわれたブルッティア・クリスピナは夫に対して露骨に軽蔑を示したため182年に処刑された。コンモドゥスの快楽の追求と剣闘士試合の訓練のため帝国全体が負担を強いられた。に新しく愛人にさせられたマルキアはキリスト教徒を鉱山奴隷にしようとしたコンモドゥスを説得して彼らを救った。自分の行動を諫めようとするマルキアの処刑を決めると、ことを察知した彼女の支援者によってコンモドゥスは毒殺されることになった。