作家 チェーザレ・パヴェーゼ トリノ大学文学部卒業 同窓の友人たちとエイナウディ社を興して出版活動を行っていた。この出版社に拠った知識人たちが反ファシズムの嫌疑で一斉逮捕された。パヴェーゼ自身は自分が活動したつもりはなかったがカラーブリア州の海辺の村ブランカレオーネに流刑された1935.8月ー36.3月。
ヴァイオリニスト&作曲家 アマチュア音楽家の両親の下、ジェノヴァで生まれ、幼児よりヴァイオリンに才能を示した。賭博好きの父親はニコロのヴァイオリンで稼げると目論み、息子に激しい訓練を課し、専門教育を受けさせた。8歳で作曲を始め、11歳で演奏会デビューを果たし、17歳から北イタリアで演奏活動を開始した。彼が生み出したヴァイオリンの技術は聴衆を熱狂させ、父親は多額の収入を得るが、賭博によってすぐ消えてしまい、ニコロは1800年、親元を離れ独立した。長身痩躯の美男子だった彼は賭博と恋愛に明け暮れ、愛器ベルゴンツィを銀行に取り上げられるほどだった。ナポレオンのふたりの妹エリーザとパウリーヌから寵愛をうけたが宮廷の人間関係に嫌気が差して1809年にはイタリア国内の演奏旅行を開始した。彼の技巧を駆使した演奏と容姿(痩せた身体と死人のように青白い顔)が当時の聴衆を驚かせ、”彼は悪魔に魂を売って、あの壮絶な演奏技巧を得たのだ”という噂が生まれた。1828年からはヨーロッパ全土に活動の場を広げ、各地で大成功を収めた。しかし健康状態が次第に悪化、1833年頃からは肺からの出血に苦しんだ。この頃ベルリオーズの演奏会に出席し、その才能を認めて作曲を依頼、『イタリアのハロルド』に結実した。ニコロは1840年ニッツァで生涯を閉じた。
ローマ皇帝 五賢帝の1人 トラヤヌスの死の床で皇帝に推された。 財政再建・治安確保・文芸美術の奨励に努めた。対外的には守勢にたちパルティアと講和した。在位中はほとんどローマにいることなく、全領土を2度にわたって巡察し(121-131)、ブリタニアにも渡り、「ハドリアヌスの城壁」を築いた。国境の属州民を軍隊に徴募した。ユダヤ民族の反乱(132-135)が治世中の平穏を破る唯一の事件となった。ハドリアノポリス(アドリアノープル)など各地に都市を建設した。ローマに建立させた霊廟:サンタンジェロ城(聖天使城)は現存する最古のローマ建築の代表。前27年に建造され、のち80年に焼失したパンテオン(万神殿)を再建(125)した。
カルタゴ将軍 第1次ポエニ戦争で敗北したカルタゴはローマへの報復を視野にスペイン南岸に拠点を建設した。ここからアルプスを越えてイタリア半島の北から侵入する計画である。その指揮を執ったのがハンニバルだった。アルプス越えには大きな犠牲を出したが、その後はローマ軍に連勝を重ねた。第2次ポエニ戦争はハンニバル戦争ともいう。突撃時には常に先頭に立ち退却時には常にしんがりを固める。兵士と同じ服を着て同じ労苦に耐えた。兵士たちは彼を慕い、盲従した。歴史と外国語(ギリシア語・ラテン語)にも通じ、外交にもたけていた。しかし長期戦になると補充ができず、ローマの将軍が本国を攻撃するとさっそく駆けつけるもザマの戦いで敗北、小アジアに亡命して自殺した。
小説家 トリノ生まれ トリノ大学大学院博士課程修了 専攻は素粒子物理学 2008年、第一作となる『素粒子たちの孤独』がイタリアでは異例の200万部超のセールスを記録、数々の文学賞を受賞した。2012年、二作目Il Corpo Umanoを発表、こちらもベストセラーとなった。
映画監督/俳優
ジェノバ生まれ 海に憧れ海員養成所に入ったが俳優志望に転じた。バーで働いたり、新聞の売り子など職業を転々としながらローマの映画実験センターで演技・監督を学んだ。第4作目『越境者』1950で世界的名声を得た 『鉄道員』1956、『わらの男』1958、『刑事』1959では自ら主役を演じ、しぶい演技が話題を呼んだ。『イタリア式離婚狂騒曲』1962アカデミー脚本賞『蜜がいっぱい』カンヌ映画祭グランプリ 女優ステファニア・サンドレッリを育てた。1974 肝臓がんで死去
航海者 ヴィチェンツァ出身 マゼラン世界周航に参加 詳細な記録を取り続けた (1519)出港時の乗員数270→(1522)帰港時の乗員数18 この生存者18の中の1人 天文学・地理学を学び16世紀初頭 聖ヨハネ騎士団のガレー船に乗った(通訳兼地図製作者として)経験をもとにセビリヤでマゼランと交渉し乗船 ビクトリア号で帰還 1522.9 航海自体よりも接触する各地の民族について大きな関心を抱き 詳細な観察を行った。南米 東南アジア モルッカ諸島の住民の語彙を収集して、現地の文化・社会を詳細に記述した。
ボローニャ生まれ。ローマで教師をしながら、詩作にはげみ、小説も高く評価された。フェリーニの『カビリアの夜』、などの脚本を担当し映画への傾斜を深めた。過去の世界に主題を求め、『奇跡の丘』『アポロンの地獄』『王女メディア』がつくられた。『デカメロン』にはじまる3部作を経て『ソドムの市』を演出、その作品に出演していた17歳の少年に撲殺された。
劇作家・小説家 ルイジ・ピランデッロはシチリア・アグリジェント近郊のカオスで生まれた。シチリア方言の語源にはズボンの形に似た地形と混沌の意味がある。父ステーファノは硫黄鉱山を管理する地元の名士だった。母カテリーナは反体制思想で亡命した父を追って、少女時代、マルタ島に移住した経験を持つ。乳母マリアが語って聞かせた伝説やおとぎ話は幼いルイジの心に刻まれ、寓話的な短編作品の源になっているようだ。パレルモ大学で法学・文学をローマの大学では言語学を学んだ。父の同僚の娘アントニエッタと結婚、ローマでの新婚生活は順調だったが、妻が精神のバランスを崩し、妄想・嫉妬による発作が起きるようになると家族は苦しむこととなった。二人の息子の出征、母の死、妻の狂気などルイジの心が休まることはなかった。土着的でありながら普遍性を有する彼の作風は多くの読者の関心を集めた。
作曲家 ルッカで生誕 プッチーニ家は代々、音楽家として知られ、父ミケーレは作曲家、演奏家、教育者として活躍したが、ジャーコモが5歳のときに病死した。しかし母の励ましと父の弟子カルロの指導で楽才を伸ばし、16歳のときオルガン競演で1等賞を得た。1876年、ピサでの《アイーダ》公演を見るため徒歩で往復し、以後ヴェルディに憧れ、オペラへの道を決意した。1880年マルゲリータ女王の奨学金を得てミラノ音楽院に入学したが、2年目からは奨学金もなくなり、やはり貧しかったマスカーニと下宿を共にして苦学を続けた。1893年トリノ王立劇場で初演された第3作《マノン・レスコー》が出世作となった。次の第4作《ボエーム》は彼の代表作であるばかりでなく、オペラの歴史においても最高傑作の1つといえる。彼の作品の特徴は、ソプラノによる悲劇の女性主人公が中心、旋律や人声の力を最大限に発揮、劇的効果をあげるための徹底的な台本検討、異国趣味などである。1924年《トゥランドット》を作曲中、咽喉癌治療のため訪れたブリュッセルで死亡、直接の死因は心臓麻痺だった。主要作品:《マノン・レスコー》1893:《ボエーム》1896:《トスカ》1900:《蝶々夫人》1904:《西部の娘》1910:三部作《外套・修道女アンジェリーカ・ジャンニスキッキ》1918:《トゥランドット》1926
作家 ヴェネト州ベッルーノに生まれる ミラノ大学卒業後、新聞記者となり、その間に特派員として赴いたアフリカや中近東での体験が小説に色濃く影響している。『山のバルナボ』1933で作家デビュー 長編『タタール人の砂漠』、短編集『七人の使者』など現実の背後にもうひとつ別の現実をあぶり出す独特の作風で注目される。1958年、短編集『六十物語』でストレーガ賞受賞。 現代イタリア文学を代表する作家のひとり。 物語の手段として絵画も多く手がけ、画家としても知られる。
作家 トリノ生まれ トリノ大学で化学を修め、43年ドイツ軍のトリノ占領を機にパルチザンに参加するが捕らえられ、44年アウシュヴィッツ強制収容所に送られる。45年1月ソ連軍に解放され、ソ連各地を転々とした後同年10月帰国、トリノの化学工場で技師として勤めながら、収容所での体験をテーマとした小説を発表した。イタリア現代文学を代表する作家の一人となる。87年自死。 邦訳書『これが人間か(アウシュヴィッツは終わらない)』 『休戦』 『天使の蝶』 『周期律』 『リリスーアウシュヴィッツで見た幻想』 『溺れるものと救われるもの』 『今でなければ、いつ』 など
建築家 ウルビーノ出身 ミラノ公ルドヴィゴ・スフォルツァに仕え、レオナルド・ダ・ヴィンチを通じてブルネレスキの初期ルネサンス建築を学ぶ。1499年、ローマに移り、1506年、教皇ユリウス2世からサン・ピエトロ大聖堂の設計を依頼される。巨大なドームをいただく中心部の十字形プランは盛期ルネサンスの代表的建築であるが、彼自身は完成を見ないで死去。
建築家 フィレンツェ出身 1401年の洗礼堂の門扉のコンクールに敗れたのち、ローマで古代建築を学び、半円アーチを多用する古典様式を復活させる。18年のフィレンツェ大聖堂のドームのコンクールに優勝してドームを建設1420-36。それは初期ルネサンスの代表的建築となる。ほかにフィレンツェの捨子養育院、パッツィ家礼拝堂など。遠近法の発見者でもある。
詩人 人文主義者 亡命フィレンツェ人を父にアレッツォで生まれる。1312年、教皇庁のあるアヴィニヨンに移住。ボローニャ大学で法律を学ぶも、アヴィニヨンを拠点にイタリア各地を転々としながら文学研究に専念。アヴィニヨンでのラウラとの出会い1327がイタリア語の詩集『カンツォニエーレ』1327頃~74の霊感源となる。ダンテのベアトリーチェと同様、ラウラは「永遠の恋人」の典型である。以後、ソネット(十四行詩)の詩形は西欧で絶大な人気を博す。また彼はキケロやセネカなどの写本の発見と校訂に努め、古典研究に没頭したために「人文主義の祖」とも呼ばれる。
作曲家 ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージは生地イェージで音楽を習い、才能がみこまれたため保護者だったピアネッティ侯爵は彼をナポリに送って音楽の勉強を続けさせた。ペルゴレージはここでヴァイオリンと作曲を学んだ。1732年、ナポリを襲った大地震の後、市当局からミサ曲を依頼されヘ長調ミサ曲を作曲、これが彼の名声を高めた。1735年、胸を病んだペルゴレージはポッツォーリのフランチェスコ会修道院に引きこもって《スターバト・マーテル》を完成したが、その最後の小節を書き終えると、すぐに26歳の若さで死亡した。
作曲家 シチリア・カターニアで生誕 オルガニストの父をもち、幼少の頃より楽才を示し、ナポリ王立音楽院で作曲を学んだ。わずか25歳でナポリのサン・カルロ劇場、ミラノ・スカラ座へと進出した。1831年、ミラノで発表した2つのオペラ《夢遊病の女》《ノルマ》はベッリーニの創作力の頂点となり、前者の美しいリリシズム、後者の厳しい緊張と深い人間的感動は、当時からショパン、ヴァーグナーから熱烈な称賛を捧げられた。1835年、パリ・イタリア座の総監督ロッシーニの熱心な援助を得て《清教徒》を発表して大成功を収めた。しかし、病弱だったため創作の心労で健康を害し、その秋、パリ近郊
の友人の家で33歳の短い生涯を閉じた。遺体はパリの墓地から、1871年、故郷カターニアの生家に近い大聖堂に運ばれた。彼は美しい旋律創造の天才で、別名「カターニアの白鳥」をもつ。彼の音楽を愛したショパンは「私が死んだら、遺体をベッリーニの墓の傍らに葬ってほしい」と望んだ。主要作品:《海賊》1827:《異国の女》1829:《夢遊病の女》1831:《ノルマ》1831:《ベアトリーチェ・ディ・テンダ》1833:《清教徒》1835
作家 人文主義者 フィレンツェ商人の子。商業の見習いのためにナポリに赴くが、その地で文学を修行。1380年頃、フィレンツェに戻り、48年の黒死病に遭遇。これが『デカメロン』執筆の契機となる。ペトラルカとも親交をむすび、古典研究に没頭。またダンテの理解者としても知られ、ダンテの伝記を執筆し、『神曲』の講義も行った。
作家 人文主義者 フィレンツェ商人の子。商業の見習いのためにナポリに赴くが、その地で文学を修行。1380年頃、フィレンツェに戻り、48年の黒死病に遭遇。これが『デカメロン』執筆の契機となる。ペトラルカとも親交をむすび、古典研究に没頭。またダンテの理解者としても知られ、ダンテの伝記を執筆し、『神曲』の講義も行った。
ローマ共和政末期の政治家 スラ派の政治家として歴史の表舞台に現れ、セルトリウスやスパルタクスの反乱の鎮圧で名を上げた。前70年クラッススとともにコンスルになり、スラの体制を覆した。前67年には当時、東地中海に横行していた海賊を討伐し、翌年にはミトリダテス戦争を終結に導いた。シリアやユダヤを属州化するなど東方の再編をおこなった後、ローマに帰還したが、その功績を認めなかった元老院と対立し、カエサル、クラッススと組んで三頭政治を敷いた。だが、妻にしていたカエサルの娘ユリアの死(前52)と翌年のクラッススの戦死後、カエサルとの対立が深まり軍事衝突に至った。ギリシアのファルサロスにおける戦いで決定的に
敗北し、エジプトへ逃れたが、その地で暗殺された。