イタリア統一運動の指導者 ジェノヴァ出身 ジェノヴァ大学卒業後カルボナリに参加して逮捕され、マルセイユに亡命中、同志とともに青年イタリアを結成1831。共和主義によるイタリア統一という理念をかかげる。一時ローマ共和国の指導者となるもフランス軍に敗れて亡命1849.以後、共和主義路線は非現実的となり、サルデーニャ王国が統一の主導権を握る。
ローマ皇帝 五賢帝の最後の人 ストア派(禁欲と理性を重視・人類は普遍的理性で結びつく世界市民であると考える)の哲学者。ハドリアヌス帝は子供時代の彼に注目、17歳の彼をピウスの養子にした。140年にコンスルに就任して良心的に公務を遂行し、皇帝となった。善政を施したが国策上からはキリスト教徒を迫害した。「パックス=ロマーナ」も最終段階で辺境での異民族の動乱に悩み、20年におよぶ治世の大部分を辺境の陣営で過ごした。ゲルマン民族との戦いに勝利をした直後、ウィーンで没した。その死は国家的損失として国民に悼まれた。陣中で執筆した『自省録』は人間愛に満ちた、宗教に近い哲学、高尚な精神の記録である。
作曲家 リヴォルノのパン屋の子に生まれ、父ははじめ法律を学ばせたが、彼はひそかに音楽に親しみ、14歳で伯父に認められて、故郷のケルビーニ音楽学校で学んだ。16歳で交響曲ハ短調を書き、1881年卒業のとき2幕のオペラ《紡績工場》を書き、賞金を得た。その後、有力な伯爵に認められミラノ音楽院に留学、ポンキエッリから作曲を学んだが中途退学する。その後、チェリニョーラで音楽教師の職を得て結婚。1888年出版社の懸賞オペラに《カヴァレリア・ルスティカーナ》で応募し、一等に当選、90年ローマ:コスタンツィ劇場で初演され大成功を収め、全世界で次々に成功した。その後も10曲あまりのオペラ作品を書いたが、出世作が代表作となった。1895-1902年、ペーザロのロッシーニ音楽院の院長もつとめたが、第二次世界大戦後、ムッソリーニの協力者として全財産を没収され、ローマで81歳の生涯を終えた。
ロンドン生まれ。少女時代はつぶらな瞳とマスクで近所の人たちに可愛がられた。高校在学中、16歳のとき、女優になる決心を固め両親の反対を押し切って卒業後、イタリアにわたった。ローマのイタリア・コンティ演劇学校に入った。在学中から雑誌のモデル、卒業後はテレビ、舞台、映画の端役として活躍、演技派女優を目ざした。64年「ゴールデン・ハンター」でマストロヤンニと共演、以後グラマー女優として売り出し、”イタリアのマリリン・モンロー”とまで言われた。63年、演劇プロデューサーと結婚、一子を生んだが、71年別居。
主な作品:モナリザの恋人66、殺しのビジネス66、太陽のならず者67、ミラノの銀行強盗68、バスタード68
作家 アレッサンドロ・マンゾーニ ミラノで誕生 10万リラ紙幣の肖像となる(1967-79) 1805年のパリ訪問をきっかけにヴォルテールの影響を受ける。
1808年結婚とともに無神論的な立場からカトリックに改宗、その後は信心深いカトリック信者として生きた。1833年妻と死別後、1837年再婚した。1840年マジョーレ湖畔レーザに移り住み著作にはげむ。1848年2月革命後のミラノで起きた対オーストリア市街戦には息子が参加、イタリア各君主がミラノ救援を呼び掛けた。1825-27年、『いいなづけ(婚約者)』というイタリアを代表する文学作品を産み出し、そこではトスカーナ語を基本とする近代
イタリア語が使われ、イタリア語の統一、という点においても大いなる役割を果たした。88歳の高齢に至っても隣人の争いやいさかいの仲裁をし、お百姓たちからも
学者、司祭、貴族たちからも、かれの生涯を通して信頼され続け、「イタリアの心」として今も大きな存在感を保っている。
政治家、思想家、歴史家、劇作家 フィレンツェ出身。サヴォナローラ処刑後の1498年、フィレンツェ共和国の書記官として軍事と外交を担当。民兵創設に尽力し、フランス王、神聖ローマ皇帝、ローマ教皇など各国の元首と会見する。1512年のメディチ家復帰で失職し、失意のうちに著作に専念。『君主論』1532ではイタリアを統一する協力な君主の出現を待望し、『ディスコルシ』1531ではローマ共和政を賛美する。宗教や道徳にとらわれない政治独自の力学があることを主張した点で近代政治学の祖とされる。ほかに『戦争の技術』1521『フィレンツェ史』1532『マンドラーゴラ』1524など。
前1ローマ共和政末期の政治家。騎士身分の出身。コンスルに新人として当選(前107)。ユグルタ戦争を勝利に導いた。前105年以後、連続してコンスルに5回当選し、その間、イタリアに侵入したゲルマン人を破った。マリウスはこれらの戦争に際して慢性的兵力不足を解決するため、武器自弁の原則を棄て、プロレタリイに武器を与えて兵士に徴募した。彼らは退役後、土地を与えられ生活も保障されたため、事実上のマリウスの私兵と化し、以後、プロレタリイは同じ方策を採った政治家の政争の具となっていった。マリウスは前88年以後、ミトリダテス戦争の指揮権をめぐってスラと激しく対立し、その武力攻撃を受けて、一時、アフリカに亡命したが帰国後、政敵を激しく迫害。前86年にコンスルに当選したが、間もな没した。
彫刻家、画家、建築家 フィレンツェ人の父の任地カプレーゼ出身。10代半ばでロレンツォ・デ・メディチに才能を見出され、メディチ邸にひきとられて新プラトン主義の感化を受ける。ローマで「ピエタ」1499、フィレンツェで「ダヴィデ」1504を完成し、盛期ルネサンスの代表的彫刻家となる。画家としてもローマのシスティーナ礼拝堂に天井画「天地創造」1508-12と壁画「最後の審判」1534-41を制作。建築家としてもサン・ピエトロ大聖堂の造営などに携わる。ヴァザーリは「神のごときミケランジェロ」に古代芸術をも凌駕するルネサンス芸術の頂点を見出した。