シチリア最大の都市、州都。島の西端、北側の沿岸沿いに位置し、そこに見られる多くの遺跡はさまざまな文化が交流した証し、 前8世紀 接岸が容易な自然の良港だったため、フェニキア人が植民地として建設 町の語源はギリシア人船乗りが「すべてが港」パノルモスと呼んだことに由来 異民族支配のオンパレードの中で、パレルモが最も栄えたのは9~12世紀のアラブ人、ノルマン人の支配時代 現存する多くの遺跡はこの時代に属する。赤い丸屋根のモスク風建築物サン・カタルド教会、金色を基調としたモザイク画で飾られたノルマン王宮などが有名 ルマン初代王ルッジェーロ2世(1130-54)は自然科学に強い関心を持ち、多くの学者(アラブ地理学者イドリーシーなど)が活躍、アラビア語やギリシア語の書物がラテン語に翻訳されヨーロッパにもたらされた。ヨーロッパでは新しい文化活動「12世紀のルネサンス」がみられた。パレルモの繁栄はシチリア王・神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(1198-1250)まで続き、彼の宮廷は異文化交流の舞台となった。しかし彼の死後、衰退に向かう→シチリアの晩禱
この後、シャルル・ダンジューは首都をナポリに置き シチリアを42軍管区に分け軍隊駐留させた 地中海帝国を目指したシャルルは威嚇と横暴により過酷な税を課した。抑圧されてきたパレルモ民衆の怒りは暴発寸前だった
誰もが石ころや棒切れ短刀を手にしてフランス人を探し回り、その場にいたフランス人200人すべてが殺された。フランス人代官は部下とともに郊外に逃げのびたが一晩明けても鎮まることなく、フランス人2000人が殺された。代官は態勢を調えるとパレルモに引き返したが迎撃された。民衆軍リーダーに担ぎ出されたパレルモ貴族ルッジェーロは集会を開いて教会の庇護のもとに自治体を発足させようとしたが(シチリアをフランスのアンジュー家に与えたのが教皇だった事を知らない)、教皇による破門の脅迫によって頓挫してしまった。