バーリから1時間30分の列車の旅。到着した時はすでに暗く、ホームに降りると人影まばら、大型の野良犬(部分的に毛が抜け落ちている)が走りまわっていて、珍しく身の危険を感じました。工業都市としてのイメージが消えかかりましたが、ホテルのある町の中心まで2,30分歩くうちに日没後の涼を求めてそぞろ歩く人たちを見てイメージ回復。最初に飛び込んだ三ツ星ホテルに空室が見つかり元気も回復。一夜明けると、南国情緒あふれる港町でした。タラント湾に面した入り江はマーレ・ピッコロとマーレ・グランデに区切られています。「2つの海を持つ町」の料理の主役は当然、海産物、ムール貝のタラント風料理コッツェ・アッラガナーテがお薦め。
一通りのない朝の通りや街並みの雰囲気は辛く苦しい歴史を潜り抜けてきた町の歴史を物語っているようで、また、人々の生活感がにじみ出ているようでもあり、心に残る風景でした。
前8世紀、ギリシアの都市国家スパルタの植民都市として建設 前4世紀前半には最盛期を迎え、人口30万、ギリシアの植民都市同盟の中心となった。この頃の遺品は国立考古学博物館(ナポリに次いで重要)に収められている。前272年ローマ軍に降伏した後は、ブリンディシとの市場競争もあって、徐々に勢力減退、中世には支配者が目まぐるしく交替、フランスとスペインの争奪戦、疫病の蔓延もあっ17世紀には、人口千人にまで衰退。19世紀初め、フランス軍の支配下、軍港としての要塞化がすすめられ、1860年以降はイタリア王国が道路整備や工業化に努め人口も回復。第二次世界大戦後は、製鉄所、石油とセンメントのプラント建設などで南イタリア最大の工業地帯となりました。