イタリア第二の都市 経済分野では第一 歴史は古くケルト人が開いた町をローマが支配したのが前222年のこと。3世紀末 ディオクレティアヌス帝が四分割制を導入した時以来、ミラノは西の正帝の本拠地となり東のコンスタンティノープルと肩を並べる重要都市になりました。313年、コンスタンティヌス帝がミラノ勅令(キリスト教公認)という歴史的な勅令を出しました。

11世紀自治都市コムーネとなって13世紀~15世紀には豪族ヴィスコンティ家が支配しました。 傭兵隊長スフォルツァがヴェネツィアとの戦いに勝って独裁権を握り、ルドヴィーゴ・イル・モーロ1452-1508がミラノ公として商工業を発展させ建築・美術作品でミラノを飾りました。 

フランスによるイタリア遠征1494から19世紀まで外国勢力に支配され続け19世紀のイタリア統一を迎えます。20世紀前半、ムッソリーニのファシスト党がこの地に誕生しました。

大聖堂ドゥオ-モ広場:1386着工1813完成 床面積の広さ世界第3位 尖塔108mのてっぺんに金色の聖母マリア像4.16mブロンズ製1774年  ファザード、側壁の彫像が2245体 堂内含めると3159体あります。広場の北側にはヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガレリア:ガラス屋根のアーケードがあって、その豪華さから「ミラノの応接間」とも・・ 


スフォルツァ家の城→西南約1㎞ サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ(恩寵の聖母マリア教会))『最後の晩餐』の壁画1495-98があります。ルドヴィーコ・イル・モーロの依頼でレオナルドが描きました。新種の絵具を使ったのが裏目に出て、ひび割れと剥落のため6回修復、ナポレオン軍が馬屋倉庫に使用、戦争中は爆撃・風雨にさらされた。入念に修復作業がなされ、特殊な顕微鏡を駆使して数mm単位で行われました。

『最後の晩餐』はキリスト教では極めて重要で、聖餐式の元になりました。キリスト教美術の主要なテーマです。一般的な構図は裏切り者ユダは別に座らせる、円い光背をユダにはつけない、ですが、レオナルドは十二人弟子のなかに入れて描きました。小柄色黒にして目立っています。イエスの爆弾発言でいったい誰が、と驚き騒ぐ様子が伝わってきます。



スフォルツァ家の祭壇画 作者無名 1494年 教会の4博士と聖母 厳格なおももちでひざまずいたミラノ公とその家族 絢爛豪華な宮廷 贅沢な飾りがすべてを包んでいるレオナルドの影響はほとんどない、(聖母の顔、巻き毛の御子、天使の表情)この時代の特徴だと考えられています。