ヴェネツィアとミラノを結ぶ街道沿いの町として古代ローマ時代に建国された。中世の自治都市コムーネの1つだったが、13世紀からパドヴァ、ミラノなどの君主の支配に置かれた後、15世紀にはヴェヘツィア共和国の支配下に入った。ナポレオンの介入でヴェネツィアが崩壊する1797まで他の都市に支配され続けた。街の貴族でもあった人文学者トリッシーノが隣町パドヴァからアンドレアという職人を呼び寄せ、ローマで建築の研究の機会を与えた。アンドレアは期待に応えて15を超える建築物をヴィチェンツァに残し、武芸の神パラスからとられたあだ名、パッラーディオと呼ばれるようになった。ヴィチェンツァは「パッラーディオの町」と言われるようになりました。他の町に支配され続けたヴィチェンツァは威信回復を果たしたわけです。ヴィチェンツアは中世から14.15世紀に幾重にも作られた城壁の跡をたどることのできる貴重な歴史遺産にも恵まれています。
ミケランジェロやブラマンテらが彫刻家や画家でありながら建築も手掛けたのと異なり、もっぱら建築だけに専念、強力なパトロンに仕えることもなかった。パッラーディオ様式と言われる設計手法とは、円柱と壁を調和させる、古代神殿の正面の形(柱列の上に三画破風が載る形式)を住宅のポルティコ(柱廊・玄関)に応用すること。18世紀にはパラーディアニズムと呼ばれ、19世紀初め、建築の専門家でもある第三代米大統領ジェファソンは自邸に取り入れた。
1786年9月、ヴィチェンツァを訪れたゲーテの評:「町を駆けまわって、パラディオ作のオリンピコ劇場や建物を見てきた。外国人向けの小冊子が解説つきで出版されているが、作品の偉大な価値はそれを眼の当たりに見て初めて解るものである。近代の建築家が征服しなければならなかった最高の困難は柱列の適正なる応用だ、なぜならば円柱と囲壁を結合することは、何といっても矛盾があるからである。しかるに彼はどんなにこの両者をうまく調和せしめたか、実際彼の設計の中にはある神的なものが存している。」(『イタリア紀行』相良訳)