ローマ帝国が476年、滅亡した後、約1400年間、イタリア半島には多くの王国、都市共和国が登場しましたが一つの国になることはありませんでした。「地理学的な意味しか持たない存在」というメッテルニヒ(オーストリア宰相)の侮蔑的表現にノーと言えない状態だったのです。
リソルジメントの集大成としての1861年のイタリア王国の誕生は、まさに、国家としてのイタリアの始まりと言えます。 「イタリア」は古来、地中海に突き出た長靴型の半島をさす地域名でしたが、漸く国名となったのです。半島の住民はフェイレンツェ人もミラノ人もすべてイタリア人になりました。
イタリアの町の中で、街路、広場、交差点、公共建築物にマッツィーニ、カヴール、ガリバルディの名前や肖像がない町があるでしょうか。とくに、ガリバルディの肖像はイタリア全土で少なくとも400はあるようです。旅行者が駅前のインフォメーションでいただく市街図には、ほぼ必ず彼らの名前があります。イタリア国民の日常に溶け込んでいる彼らは、リソルジメントにどのような関わりを持っていたのでしょう・・
トリノの国立リソルジメント博物館で多くの写真・資料を見ることができました。ここではその報告もかねて、この3人の人物について、理解を深めたいと思います。
ナポレオンは1796年5月、フランス総裁政府:イタリア方面軍の総指揮官として北イタリアに侵攻。フランス革命当初から、反革命勢力の中心だったオーストリアの勢力を駆逐した。イタリア住民は彼を征服者としてではなく、解放者として歓呼して迎えたが、占領軍による美術品の略奪、金品の徴発が明らかになると期待が落胆に代わった。1797年11月、ナポレオンがイタリアを去ると北では都市国家の領土争い、南では武装集団の蜂起が相次ぎ、オーストリアが北イタリアやライン方面に侵攻した。
・マッツィーニは、統一のためには教育と蜂起が必要であるとした。最多最貧階級の人民を運動に引き入れるためには、彼らに革命の社会的内容を明示し、彼らの敵はオーストリアだけではなく税徴収者、税関役人、警官、なども直接の抑圧者であることを理解してもらう。「青年イタリア」は政治宣伝文書を印刷して人民教育に使用したが、1830年代イタリア人の識字率は極めて低く、出版物を読めて理解できる人は限られていた。文書を読めない農民に口頭で説明しようとしても農村社会で集会を開くことは難しく大きな危険をともなった。
・マッツィーニは農民たちの識字率の低さと無気力な実体を考慮に入れていなかった。彼らは治安部隊に協力するわけではなかったが、「青年イタリア」の訴えにたいしては耳を塞いだままだった。マッツィーニは革命のために正規軍との戦闘は避けられないが、そのための最も有効な手段はゲリラ戦であると確信していた。ナポレオン軍の侵略に抗して戦ったスペイン民衆のゲリラ戦は人民戦争という観点から、イタリアの地形を知り尽くした住民にふさわしい戦術として考えられた。ゲリラ戦こそ「戦いの場に多数の人々を呼び寄せ、限りなく少人数の人々で支えられ、作戦拠点を固定することなく、敵を異例の戦争に追い込む、外国の征服者からの解放のための全民族の戦い」なのだ・・・と。
・1831年、カルロ・アルベルトがサルデーニャ国王に即位するとマッツィーニは彼に宛てて公開状を書き、自由主義国民運動の先頭にたってほしいと懇願したが空しく終わった。この国王の人柄と果たした正確な役割についてはリソルジメント史において最も議論の多いテーマとも言われている。1830-40年代、トリノ、ジェノヴァ、アレッサンドリア、ボローニャ、リミニ、シチリア、と蜂起が続き、参加者に対する処刑、死刑宣告、国外追放などの処罰がくだされた。1844年、マッツィーニの忠告を無視したカラブリアの革命計画はバンディエーラ兄弟と七人の同志の銃殺という犠牲によって終了した。「青年イタリア」の失敗が繰り返されていくと、知識人たちの中にはマッツィーニへ不信と疑問を抱き、穏健派へとはしる者も出てきた。
1848年のフランス二月革命に先行して、イタリア各地で改革運動が始まっていた。1846年、ヨーロッパの経済情勢が悪化し、改革勢力が優勢になっており、イギリスではこの年、保守派が穀物輸入を制限する穀物法の廃止に追い込まれていた。新たに選出されたローマ教皇ピウス九世は改革派として通っていた人物で、その即位は自由主義者のあいだに熱狂を巻き起こした。新教皇は教皇領(教会国家)においてさまざまな改革を試みた.出版の自由、議会の成立、政府組織への非聖職者の参加を認め、教皇人気が高まった。
国王カルロ・アルベルトはピエモンテ民衆の熱狂的な愛国心におされ仕方なく出兵した。戦争の準備も不十分、ロンバルディアの地図さえ用意せず進軍の速度が遅く、オーストリア軍がゆっくり退却して軍備を補強する余裕を与えてしまった。失敗の3つの理由
クリミア戦争と第二次独立戦争
8-11 ヴィッラフランカ休戦条約 ヴェローナ近郊 オーストリア・フランス間で締結。フランス:ナポレオン3世がオーストリアに休戦を申し入れた。※フランスの事情:プロンビエールの協定か反故にされそうになった。戦死者8500以上となり、フランス世論が戦争に否定的になった。プロイセンがオーストリアを支援する意向を固め戦闘準備態勢に入ったことにで全面戦争になる恐れが生じた。。
ロンバルディアはフランスを介してサルデーニャ王国に割譲、中部イタリアの小公国は以前の体制(王政復古)に戻す、ヴェネトはオーストリア領のまま残す。翌60年1月、ナポレオン3世はサルデーニャ王国による中部イタリア併合(どこも国王の復帰はできず)を認めるかわりに、ニースとサヴォイアを獲得した。国王エマヌエーレ2世は王家発祥の地を失うことに良心の呵責を覚えていたが、結局はカヴールの意向に任せた。
ガリバルディ「千人隊(赤シャツ隊)」シチリア遠征・・ニース生まれのガリバルディは生まれ故郷がフランスに与えられたことに大きな屈辱感を覚え、カヴールの行動に憤激した。カヴールがおこなったことは「イタリアの統一」ではなく「サルデーニャ王国の領土拡大」ではないか?と・・・おりしも、1860年4月、シチリア:パレルモで民衆蜂起が起こると、両シチリア軍を倒すことでもう一度、人民の反乱による統一へ向かうことができる、と考えた。
5・5 ジャノヴァ(クワルト)からシチリアに向けて出発。「ピエモンテ号」「ロンバルド号」ガリバルディ義勇兵部隊(千人隊 赤シャツ隊)
5・11 マルサラ(シチリア最西端)に上陸 内陸部に進軍、2万5千の両シチリア軍を敗走させる。
6・6 パレルモ制圧
7.27 メッシーナ占領 内外から5万1千人の義勇兵が駆け付けていた。
カヴールはガリバルディの進撃によってイタリア全土が民主化されてしまうことを恐れた。サルデーニャ軍は教皇諸国を通過してナポリに向かって南下した。ガリバルディはナポリ軍を激戦ののち撃破したが国王エマヌエーレ2世率いるサルデーニャ軍に阻まれ、やむなく屈することとなった。
10.26 ティアーノの出会い 壮観な出来事 革命の終結
11.9 ガリバルディ、カプレーラ島に帰る
「ティアーノの握手」は愛国的神話となった。ガリバルディが代表した「人民」がサルデーニャ王国と手を結んだことで新生国家イタリアは誕生したのだ
政治制度の議論はされなかった。議論が沸騰すればオーストリアとフランスが介入してくるにちがいない、とカヴールは国際政治に緊迫感を抱いていた。
11.9 「千人隊」は解散させられ、ガリバルディは複雑な思いを抱きながらカプレーラ島に帰っていった。
1861年1月、 最初の国政選挙 2月 最初の議会が首都トリノで開催される 3月 エマヌエーレ2世がイタリア国王を宣言サルデーニャ王国の法律・制
度が全イタリアに一律に適用された。
統一された諸国の融合、教皇ピウス9世との紛争解決に忙殺される中、慢性のマラリアの発作と過労のため世を去った
最後の言葉は「イタリアはできあがった」だった。
この早すぎる死は新生イタリア国家にとって災厄だった。彼の外交経験と国際的名声は替えがたく、列強間の折り合いをつけ国内の軋轢を鎮めることができたのは彼だけだった。後継者たち(リカーソリ、ラッタッツィ、ファリーニ、ミンゲッティ、ラ・マルモラ)は無能ではないが器量に欠け、神格化され有頂天となった国王エマヌエーレ2世を制御できるものはいなかった。政府は併合された土地を属国とみなし法的には対等の立場にあるパートナーとは考えず、結果として「南部問題」が生まれた⇒重税と徴兵制への不満から南イタリア(メッツォジョルノ)では暴動が絶えず治安部隊との衝突で荒廃していった。特別裁判所による安易な処刑が横行、治安部隊(正規軍12万)にも病気・戦闘での死者が続出、リソルジメント中の戦死者以上の犠牲が出た。ナポリ地域「カモッラ団」、シチリア「マフィア」といった暴力・犯罪組織がテロが蔓延した農村部の大衆を脅かした。
・自由貿易関税を全国一律で導入⇒南部経済悪化:保護関税のおかげで地元の市場だけを相手に維持できてい
た小工場が破産・ナポリの繊維・機械工場が廃業に追い込まれた。
・政府の負債処理⇒増税(1862-65 直接税54% 間接税40%上昇)1868年の悪名高き「製粉税」によって南
部やポー川下流域では山賊行為が横行した。
・教会と公共の資産押収⇒売却された土地は地主階級が買占め、大土地所有権が永続化することになった。土
地が持てるという農民の夢は消えた。
・教会の反政府活動・・教皇領の縮小によるピウス9世の怒りは激しく、国王と閣僚を破門し、カトリック教徒
に対し国政選挙棄権を命じた。
ヨーロッパの大問題だった「ドイツ統一」が、フランスの調停もあってイタリア王国のヴェネト(ヴェネツィア)併合に大きなチャンスとなった。オーストリアとの戦いの道を探っていたプロイセン首相ビスマルクはイタリアとの接近を考えていた。1866年4月 プロイセンーイタリア協定が結ばれた:プロイセンがオーストリアと開戦した後、3か月以内にオーストリアと戦闘に入る、という片務的な内容だった。代償はヴェネト(ヴェネツィア)である。
ウィーン政府はイタリアの中立性の代償としてヴェネト地方を譲ることを申し出たがラ・マルモラは申し出を断った。6月16日、プロイセンーオーストリア戦争が始まるとイタリアは協定通り6月20日戦闘状態に入ったが準備不足と指揮官の優柔不断さ、そして何より旧諸国出身者の混成軍が国民的高揚に欠けていたことにより、イタリア軍24万、オーストリア軍14万と兵力の上では優勢だったが敗北を重ねた。7月3日ケーニヒグレーツの戦いでプロイセンはオーストリアに壊滅的打撃を与えていた。イタリア抜きでプロイセン・オーストリア休戦条約が結ばれ、11月3日ウィーン平和条約が成立した。イタリアにとって屈辱的終戦だった。フランスの手を経て念願のヴェネトを受け取ったがプロイセンとは対照的に敗戦の責任転嫁に明け暮れる指導者層の下、イタリア国民に笑顔はなく、むしろ絶望感に包まれていた。普墺戦争時にカヴールが存命ならば・・・
ローマは1860年代フランス軍の保護下にあったが、1870年、普仏戦争が始まると国土防衛のために引き揚げられた。フランス軍がスダンで決定的に敗北すると、その3週間後の9月20日、イタリア王国軍はローマに進駐した。10月2日住民投票が実施されイタリアへの合併が40785票対46票で批准された。1871年8月1日、イタリアの首都は正式にローマとなった。すべての教皇領を失ったピウス九世は教皇位の安全、年金の補助を内容とする教皇保障法の提案を拒否しバチカンに閉じこもることとなった『バチカンの囚人』。この状況は1929年11月29日のラテラノ協定まで続く。
トリノ:リソルジメント博物館の展示室もそろそろ終了です。第27室~29室は1870-1915がテーマです。ブルジョアジーの時代としての雰囲気を伝える一方、第一次世界大戦までの社会に潜む底知れぬ不安を感じさせる展示です。
リソルジメント運動で統一国家イタリアは成立した。しかし、マッツィーニの理念、自由と平等にもとづく民主政治はいつ実現するのだろうか? 統一にはカヴールの国際感覚とガリバルディの行動主義が必要だったし、根本にはマッツィーニの理想主義がなければならなかった。様々な問題を抱えたまま突入した第一次世界大戦でイタリアはどうなった?「文明の終わり」(ポスター)が到来する。マッツィーニ(M)もガリバルディ(G)もカヴール(C)も、いや、国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世(V)さえ望まなかったはずのファシズム政権が誕生してしまう。マッツィーニの夢だった民主主義国家イタリア共和国は1946年6月に誕生する。リソルジメント運動から80年、最後の部分ではファシストとレジスタンスに分断されたイタリア人同士が殺し合うことに・・・イタリアのどの街にもあるMGCVを冠した通りや広場、そこに出会うと一抹の侘しさ、やるせなさを覚えてしまうのは私マルコだけでしょうか?