リソルジメント(再興):イタリアの誕生


ローマ帝国が476年、滅亡した後、約1400年間、イタリア半島には多くの王国、都市共和国が登場しましたが一つの国になることはありませんでした。「地理学的な意味しか持たない存在」というメッテルニヒ(オーストリア宰相)の侮蔑的表現にノーと言えない状態だったのです。

リソルジメントの集大成としての1861年のイタリア王国の誕生は、まさに、国家としてのイタリアの始まりと言えます。 「イタリア」は古来、地中海に突き出た長靴型の半島をさす地域名でしたが、漸く国名となったのです。半島の住民はフェイレンツェ人もミラノ人もすべてイタリア人になりました。


イタリアの町の中で、街路、広場、交差点、公共建築物にマッツィーニ、カヴール、ガリバルディの名前や肖像がない町があるでしょうか。とくに、ガリバルディの肖像はイタリア全土で少なくとも400はあるようです。旅行者が駅前のインフォメーションでいただく市街図には、ほぼ必ず彼らの名前があります。イタリア国民の日常に溶け込んでいる彼らは、リソルジメントにどのような関わりを持っていたのでしょう・・

トリノの国立リソルジメント博物館で多くの写真・資料を見ることができました。ここではその報告もかねて、この3人の人物について、理解を深めたいと思います。


(1)フランス革命の影響~ナポレオン時代 1789-1815


  • 1770-80年代、ルソーの本を読んだイタリアの改革を願う人々は、もはや君主と政府を信用することはなく、民衆に共感し、アメリカ独立戦争で生まれた「国民には自らの法律を定める権利がある」という主張に大きな影響を受けた。彼らは主権在民の意味を理解し、そこから国家とは何かを考え、政府は人民の総意によって決められる、という思想を学んだ。
  • 1789年に勃発したフランス革命はイタリアの啓蒙知識人たちを喜ばせ、パリに出発した人たちもいた。しかし、ジャコバン派の恐怖政治が始まるとフランス革命に幻滅する。

ナポレオンは1796年5月、フランス総裁政府:イタリア方面軍の総指揮官として北イタリアに侵攻。フランス革命当初から、反革命勢力の中心だったオーストリアの勢力を駆逐した。イタリア住民は彼を征服者としてではなく、解放者として歓呼して迎えたが、占領軍による美術品の略奪、金品の徴発が明らかになると期待が落胆に代わった。1797年11月、ナポレオンがイタリアを去ると北では都市国家の領土争い、南では武装集団の蜂起が相次ぎ、オーストリアが北イタリアやライン方面に侵攻した。


  • 1800年5月、ナポレオンは4万人のフランス軍を率いて、サン・ベルナルド峠(2469m)を越えて、再びイタリアに侵攻し、マレンゴの戦いでオーストリアに勝利した。この後、15年間ナポレオンの支配が続き、ナポレオン法典が適用され、封建制の廃止などの近代化が図られたが成果はなかった。その原因はナポレオンにとって、イタリアは一族に報酬として与える領土であり、フランスの属国の1つにすぎなかったからである。
  • 徴兵制がイタリアに導入され、求められる兵員数は増加の一途をたどった。1810年49000人⇒1812年92000人。兵士たちは過酷な体験を経て、故郷への執着、半島根性から脱皮してイタリア人としての自覚、新たな統一国家を目指そう、という気になった。
  • フランスの支配を体験したイタリア人の国民感情に、大きな変化がみられ国の在り方を考えるようになった。ナポレオンが、例えばフランス語を公式言語として強制したことにみられる、文化の画一化の推進は、イタリア人にとって自由を抑圧するものだった。


(2)秘密結社の活動・マッツィーニ登場


  • ナポレオンの勢力が姿を消すと、イタリア半島はサンマリノ共和国を入れて8つの国に分断され、その多くがオーストリアの支配におかれた。ロンバルド=ヴェネト王国はオーストリアの直接支配、モデナ公、パルマ公、トスカーナ大公はオーストリア・ハプスブルク家ゆかりの者たちであり、両シチリア王国はオーストリアの従属下におかれ、教皇領にはオーストリア軍が駐屯した。曲りなりにも独立性を維持できたのはピエモンテ:サルデーニャ王国だけだった。
  • しかし、サルデーニャ王ヴィットリオ・エマヌエーレ1世は最も保守的で復古的だった。貴族の特権の回復、聖職者による教育と検閲、ユダヤ人のゲットーへの再収監、関税の復活など、世論を無視して、サヴォイア王家発展と自らの権威向上のために巨額の軍事費を使った。
  • 重税、物価上昇、地主による搾取に農民の不満は高まり、軍役を逃れて脱走する兵士が増加、盗賊が横行した。イタリア各地に秘密結社が結成されたが、分裂が深刻で統一行動をとることはできなかった。最も組織を拡大したのはカルボネーリア(炭焼き党)で、半島全土に広がり、加入者数は30-64万にのぼったが参加者の社会階層も立場も多様で政治に対する考え方も過激派から穏健派までさまざまだった。オーストリア軍の弾圧に対抗するための軍隊を編成できなかった。

  • 1820-21 ナポリ・トリノでカルボネーリアによる立憲革命が起きたがオーストリア:メッテルニヒによる軍事介入によって、あえなく終わった。秘密結社に対する取り締まりが強まり、多数の逮捕者・亡命者が出た。逮捕者の中にはロマン主義の作家シルヴィオ・ペッリコもいた。彼はオーストリアのシュピールベルク牢獄に投獄され、その悲惨な経験を『我が牢獄』として出版した。この作品の影響を受けたスタンダールは『パルムの僧院』でカルボネーリアを描いた。
  • 1831 パリ:七月革命の影響で中部イタリアのモデナ・パルマ公国で革命が起きたが、モデナ公フランチェスコ4世は狼狽しオーストリア軍を呼び込み、革命計画は崩壊した。10年前と同じく国外亡命の波が起こった。ジェノヴァから1人の青年弁護士(マッツィーニ)がマルセイユに亡命した。1821年と1831年の地域的革命の失敗はカルボネーリアの限界と準備不足を露わにし、以後この党派は急速に衰えていった。

  • 文学や音楽の分野ではリソルジメントの影響の下、愛国的な作品が生まれた。アレッサンドロ・マンゾーニの『婚約者たち(いい名づけ)』1825-27はその代表であり、「文化的ナショナリズム」を文学をとおして高揚させ、イタリアを統一された一つの国として描き、知識人の歴史意識を高めることになった。
  • 対オーストリア戦で負傷し、感染症で夭逝した詩人ゴッフレッド・マメリ1827-49の作品『イタリアの兄弟よ』はヴェルディの曲に付されてイタリア国歌となった。「イタリアの兄弟よ、目覚めしイタリアは、勝利はいずこ?、頭を上げよイタリアよ、神がつくりたまいしローマの僕イタリアよ、つどいし我らは・・・死を覚悟せり」
  • 大衆にとって音楽は独立と自由への願望を最も効果的に表現する芸術だった。ロッシーニのオペラ《ウィリアム・テル》は舞台上で国民的悲願を表明し、ヴェルディのオペラ《ナブッコ》のコーラスでは囚われのヘブライ人とともに、自由を求めるすべての人々が「失われた祖国」のために想いをつのらせた。

(3)マッツィーニ「青年イタリア」とサルデーニャ国王カルロ・アルベルト 1840年代


  • 共和主義者の父と敬虔な愛国者の母に大きな影響を受けたマッツィーニは法律を学んだあと、20代から自由主義思想からの着想された記事を投稿し、1827年、カルボネーリアに加わった。亡命生活を送るうちに政治思想が形成され、カルボネーリアから離れると、1831年、マルセイユで「青年イタリア」を結成した。この結社は同様の組織を次々と吸収しかつてのカルボネーリアの党員の大半を加盟させた。
  • マッツィーニの思想:フランス革命の思想を受け入れたが、歴史はすでに新しい段階へ進んだと考えた。すなわち個人の権利を求める闘争は終わり、これから「人民」の自由のための集団的闘争が始まる、と考えた。ローマ帝国時代のイタリアから教皇を頂点とするカトリック時代のイタリアに継いで、共和国国家という第三のイタリアが統一国家を目指さなければならない。この統一というテーマをリソルジメントの主目標とし、そのためには武力による蜂起が必要である。イタリアは「人民」による共和国であるべきである、という明快な主張は多くの支持者を獲得した。この中にはニースから来た船乗りのガリバルディもいた。これまで立憲主義という方針のもとであいまいにされていた自由主義穏健派と民主主義派の考えの相違も明白となった。

・マッツィーニは、統一のためには教育と蜂起が必要であるとした。最多最貧階級の人民を運動に引き入れるためには、彼らに革命の社会的内容を明示し、彼らの敵はオーストリアだけではなく税徴収者、税関役人、警官、なども直接の抑圧者であることを理解してもらう。「青年イタリア」は政治宣伝文書を印刷して人民教育に使用したが、1830年代イタリア人の識字率は極めて低く、出版物を読めて理解できる人は限られていた。文書を読めない農民に口頭で説明しようとしても農村社会で集会を開くことは難しく大きな危険をともなった。

・マッツィーニは農民たちの識字率の低さと無気力な実体を考慮に入れていなかった。彼らは治安部隊に協力するわけではなかったが、「青年イタリア」の訴えにたいしては耳を塞いだままだった。マッツィーニは革命のために正規軍との戦闘は避けられないが、そのための最も有効な手段はゲリラ戦であると確信していた。ナポレオン軍の侵略に抗して戦ったスペイン民衆のゲリラ戦は人民戦争という観点から、イタリアの地形を知り尽くした住民にふさわしい戦術として考えられた。ゲリラ戦こそ「戦いの場に多数の人々を呼び寄せ、限りなく少人数の人々で支えられ、作戦拠点を固定することなく、敵を異例の戦争に追い込む、外国の征服者からの解放のための全民族の戦い」なのだ・・・と。

・1831年、カルロ・アルベルトがサルデーニャ国王に即位するとマッツィーニは彼に宛てて公開状を書き、自由主義国民運動の先頭にたってほしいと懇願したが空しく終わった。この国王の人柄と果たした正確な役割についてはリソルジメント史において最も議論の多いテーマとも言われている。1830-40年代、トリノ、ジェノヴァ、アレッサンドリア、ボローニャ、リミニ、シチリア、と蜂起が続き、参加者に対する処刑、死刑宣告、国外追放などの処罰がくだされた。1844年、マッツィーニの忠告を無視したカラブリアの革命計画はバンディエーラ兄弟と七人の同志の銃殺という犠牲によって終了した。「青年イタリア」の失敗が繰り返されていくと、知識人たちの中にはマッツィーニへ不信と疑問を抱き、穏健派へとはしる者も出てきた。


(4)1848年の革命


1848年のフランス二月革命に先行して、イタリア各地で改革運動が始まっていた。1846年、ヨーロッパの経済情勢が悪化し、改革勢力が優勢になっており、イギリスではこの年、保守派が穀物輸入を制限する穀物法の廃止に追い込まれていた。新たに選出されたローマ教皇ピウス九世は改革派として通っていた人物で、その即位は自由主義者のあいだに熱狂を巻き起こした。新教皇は教皇領(教会国家)においてさまざまな改革を試みた.出版の自由、議会の成立、政府組織への非聖職者の参加を認め、教皇人気が高まった。

  • 1月12日 両シチリア王国 パレルモの反乱・・農民・漁師・職人参加 市内に約30のバリケードを築き国王軍と戦闘 軍を撤退                      に追い込む⇒ナポリに波及
  • 2月11日 両シチリア王国 国王フェルディナンド2世 憲法発布
  • 2月17日 トスカーナ大公国 レオポルド2世 自由主義者の要求に応えて憲法発布
  • 3月4日 サルデーニャ王国 国王カルロ・アルベルト 議会の要請に応えて憲章発布(後のイタリア王国憲法) 三色旗の国旗採用      ナポリの民衆運動のニュースに反応して新聞や自由主義者が絶対王政の廃止を要求・・国王は本意ではなかった

  • 3月14日 教会国家 教皇ピウス九世 憲法発布
  • 3月18日 「ミラノの五日間」 反オーストリアの民衆反乱 学生・女性も含む市民がバリケードを築いてオーストリアと戦った 
  • 3月23日 ミラノからオーストリア軍が撤退するとサルデーニャ国王カルロ・アルベルトは対オーストリア戦に踏み切り、軍隊をロンバルディアに進めた。トスカーナ大公国・教会国家・両シチリア王国が参戦を表明し軍隊を派遣、義勇兵も多く結集、この時点でイタリアの民族戦争の様相となった。3月~4月にかけて数百人から数千人のからなる約350の義勇兵部隊が組織された。

(5) 第一次独立戦争とローマ共和国 1848-49


国王カルロ・アルベルトはピエモンテ民衆の熱狂的な愛国心におされ仕方なく出兵した。戦争の準備も不十分、ロンバルディアの地図さえ用意せず進軍の速度が遅く、オーストリア軍がゆっくり退却して軍備を補強する余裕を与えてしまった。失敗の3つの理由

  1. 4月29日 教皇ピウス九世が戦争からの撤退を表明 オーストリア・カトリック派との分裂を心配したのだ
  2. 国王カルロ・アルベルトはミラノに到着すると、現地の貴族ばかりを取り立て、4~6月、オーストリア支配から解放されたロンバルディアのサルデーニャ王国への併合について、住民投票を実施した。このことは、この戦争はイタリアをオーストリアから解放するための戦争ではなく、サルデーニャ王国の領土拡大、昔ながらの王家の戦争だった、ことを露呈させた。国王カルロ・アルベルトへの失望、愛国者たちの熱気の消滅、統一戦線の崩壊が同時にやってきた。
  3. 7月24-25日 クストーザの戦いでサルデーニャ軍はラデツキー将軍率いるオーストリア軍に敗れ、ロンバルディアを放棄して自国領内に撤退した.ヨハン・シュトラウス(1804-49)はこの勝利を祝って「ラデツキー行進曲」を作曲した。


(6)サルデーニャ(ピエモンテ)王国とカヴール時代 1850-59




クリミア戦争と第二次独立戦争





8-11 ヴィッラフランカ休戦条約 ヴェローナ近郊 オーストリア・フランス間で締結。フランス:ナポレオン3世がオーストリアに休戦を申し入れた。※フランスの事情:プロンビエールの協定か反故にされそうになった。戦死者8500以上となり、フランス世論が戦争に否定的になった。プロイセンがオーストリアを支援する意向を固め戦闘準備態勢に入ったことにで全面戦争になる恐れが生じた。

ロンバルディアはフランスを介してサルデーニャ王国に割譲、中部イタリアの小公国は以前の体制(王政復古)に戻す、ヴェネトはオーストリア領のまま残す。翌60年1月、ナポレオン3世はサルデーニャ王国による中部イタリア併合(どこも国王の復帰はできず)を認めるかわりに、ニースとサヴォイアを獲得した。国王エマヌエーレ2世は王家発祥の地を失うことに良心の呵責を覚えていたが、結局はカヴールの意向に任せた。


イタリア統一の達成 1860


ガリバルディ「千人隊(赤シャツ隊)」シチリア遠征・・ニース生まれのガリバルディは生まれ故郷がフランスに与えられたことに大きな屈辱感を覚え、カヴールの行動に憤激した。カヴールがおこなったことは「イタリアの統一」ではなく「サルデーニャ王国の領土拡大」ではないか?と・・・おりしも、1860年4月、シチリア:パレルモで民衆蜂起が起こると、両シチリア軍を倒すことでもう一度、人民の反乱による統一へ向かうことができる、と考えた。

5・5 ジャノヴァ(クワルト)からシチリアに向けて出発。「ピエモンテ号」「ロンバルド号」ガリバルディ義勇兵部隊(千人隊 赤シャツ隊)

5・11 マルサラ(シチリア最西端)に上陸 内陸部に進軍、2万5千の両シチリア軍を敗走させる。

6・6 パレルモ制圧

7.27 メッシーナ占領 内外から5万1千人の義勇兵が駆け付けていた。

カヴールはガリバルディの進撃によってイタリア全土が民主化されてしまうことを恐れた。サルデーニャ軍は教皇諸国を通過してナポリに向かって南下した。ガリバルディはナポリ軍を激戦ののち撃破したが国王エマヌエーレ2世率いるサルデーニャ軍に阻まれ、やむなく屈することとなった。

10.26 ティアーノの出会い  壮観な出来事 革命の終結

 

11.9 ガリバルディ、カプレーラ島に帰る

 


ティアーノの出会い


「ティアーノの握手」は愛国的神話となった。ガリバルディが代表した「人民」がサルデーニャ王国と手を結んだことで新生国家イタリアは誕生したのだ

政治制度の議論はされなかった。議論が沸騰すればオーストリアとフランスが介入してくるにちがいない、とカヴールは国際政治に緊迫感を抱いていた。

11.9 「千人隊」は解散させられ、ガリバルディは複雑な思いを抱きながらカプレーラ島に帰っていった。

1861年1月、 最初の国政選挙 2月 最初の議会が首都トリノで開催される 3月 エマヌエーレ2世がイタリア国王を宣言サルデーニャ王国の法律・制  

     度が全イタリアに一律に適用された。 


カヴールの死 1861年6月

統一された諸国の融合、教皇ピウス9世との紛争解決に忙殺される中、慢性のマラリアの発作と過労のため世を去った  

最後の言葉は「イタリアはできあがった」だった。

この早すぎる死は新生イタリア国家にとって災厄だった。彼の外交経験と国際的名声は替えがたく、列強間の折り合いをつけ国内の軋轢を鎮めることができたのは彼だけだった。後継者たち(リカーソリ、ラッタッツィ、ファリーニ、ミンゲッティ、ラ・マルモラ)は無能ではないが器量に欠け、神格化され有頂天となった国王エマヌエーレ2世を制御できるものはいなかった。政府は併合された土地を属国とみなし法的には対等の立場にあるパートナーとは考えず、結果として「南部問題」が生まれた⇒重税と徴兵制への不満から南イタリア(メッツォジョルノ)では暴動が絶えず治安部隊との衝突で荒廃していった。特別裁判所による安易な処刑が横行、治安部隊(正規軍12万)にも病気・戦闘での死者が続出、リソルジメント中の戦死者以上の犠牲が出た。ナポリ地域「カモッラ団」、シチリア「マフィア」といった暴力・犯罪組織がテロが蔓延した農村部の大衆を脅かした。


経済悪化

・自由貿易関税を全国一律で導入⇒南部経済悪化:保護関税のおかげで地元の市場だけを相手に維持できてい

 た小工場が破産・ナポリの繊維・機械工場が廃業に追い込まれた。

・政府の負債処理⇒増税(1862-65 直接税54% 間接税40%上昇)1868年の悪名高き「製粉税」によって南 

 部やポー川下流域では山賊行為が横行した。

・教会と公共の資産押収⇒売却された土地は地主階級が買占め、大土地所有権が永続化することになった。土

 地が持てるという農民の夢は消えた。

・教会の反政府活動・・教皇領の縮小によるピウス9世の怒りは激しく、国王と閣僚を破門し、カトリック教徒

 に対し国政選挙棄権を命じた。


ヴェネツィアの併合 1866

ヨーロッパの大問題だった「ドイツ統一」が、フランスの調停もあってイタリア王国のヴェネト(ヴェネツィア)併合に大きなチャンスとなった。オーストリアとの戦いの道を探っていたプロイセン首相ビスマルクはイタリアとの接近を考えていた。1866年4月 プロイセンーイタリア協定が結ばれた:プロイセンがオーストリアと開戦した後、3か月以内にオーストリアと戦闘に入る、という片務的な内容だった。代償はヴェネト(ヴェネツィア)である。 

ウィーン政府はイタリアの中立性の代償としてヴェネト地方を譲ることを申し出たがラ・マルモラは申し出を断った。6月16日、プロイセンーオーストリア戦争が始まるとイタリアは協定通り6月20日戦闘状態に入ったが準備不足と指揮官の優柔不断さ、そして何より旧諸国出身者の混成軍が国民的高揚に欠けていたことにより、イタリア軍24万、オーストリア軍14万と兵力の上では優勢だったが敗北を重ねた。7月3日ケーニヒグレーツの戦いでプロイセンはオーストリアに壊滅的打撃を与えていた。イタリア抜きでプロイセン・オーストリア休戦条約が結ばれ、11月3日ウィーン平和条約が成立した。イタリアにとって屈辱的終戦だった。フランスの手を経て念願のヴェネトを受け取ったがプロイセンとは対照的に敗戦の責任転嫁に明け暮れる指導者層の下、イタリア国民に笑顔はなく、むしろ絶望感に包まれていた。普墺戦争時にカヴールが存命ならば・・・


ローマ併合~イタリア統一の完成~ 1870

ローマは1860年代フランス軍の保護下にあったが、1870年、普仏戦争が始まると国土防衛のために引き揚げられた。フランス軍がスダンで決定的に敗北すると、その3週間後の9月20日、イタリア王国軍はローマに進駐した。10月2日住民投票が実施されイタリアへの合併が40785票対46票で批准された。1871年8月1日、イタリアの首都は正式にローマとなった。すべての教皇領を失ったピウス九世は教皇位の安全、年金の補助を内容とする教皇保障法の提案を拒否しバチカンに閉じこもることとなった『バチカンの囚人』。この状況は1929年11月29日のラテラノ協定まで続く。


トリノ:リソルジメント博物館の展示室もそろそろ終了です。第27室~29室は1870-1915がテーマです。ブルジョアジーの時代としての雰囲気を伝える一方、第一次世界大戦までの社会に潜む底知れぬ不安を感じさせる展示です。



厳しく悲惨な現実



リソルジメント運動で統一国家イタリアは成立した。しかし、マッツィーニの理念、自由と平等にもとづく民主政治はいつ実現するのだろうか? 統一にはカヴールの国際感覚とガリバルディの行動主義が必要だったし、根本にはマッツィーニの理想主義がなければならなかった。様々な問題を抱えたまま突入した第一次世界大戦でイタリアはどうなった?「文明の終わり」(ポスター)が到来する。マッツィーニ(M)もガリバルディ(G)もカヴール(C)も、いや、国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世(V)さえ望まなかったはずのファシズム政権が誕生してしまう。マッツィーニの夢だった民主主義国家イタリア共和国は1946年6月に誕生する。リソルジメント運動から80年、最後の部分ではファシストとレジスタンスに分断されたイタリア人同士が殺し合うことに・・・イタリアのどの街にもあるMGCVを冠した通りや広場、そこに出会うと一抹の侘しさ、やるせなさを覚えてしまうのは私マルコだけでしょうか?