カタラウヌムの戦い 451

ガリアに侵入してきたフン族の王アッティラをアエティウス指揮下のローマ側の軍隊が撃退した戦い。カタラウヌムは現在のフランス東部トロワ近郊。アエティウスは、この時、西ゴート族をはじめとする多くの同盟部族を指揮して戦いにあたった。

カンネーの戦い 前216

第二次ポエニ戦争中の前216年、ハンニバル率いるカルタゴ軍がカンネーにおいてローマ軍に完勝した戦い。カンネーはイタリア半島南部アプリア地方、現オファント川右岸にある都市。



カノッサの屈辱 1077

聖職叙任権(司教や修道院長を任命する権限)について、世俗諸侯はみずからの領地の教会に対して叙任権を主張した。とくに、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝との争いを叙任権闘争という。教皇グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門して教皇権の優位を主張するとハインリヒは中部イタリアのカノッサ(教皇に忠実なトスカーナ辺境伯マティルデの城)でグレゴリウス7世に破門の解除を願って雪の中に3日間立ちつくした事件。赦免を得たハインリヒはやがて陣営を立て直し国王派の司教を集めて公会議を開き1080、教皇の廃位を宣言し対立教皇クレメンス3世を立てた。



騎士身分(ローマ)

古代ローマの騎士とは本来は騎兵として従軍する者たちのことであったが、やがて騎兵として軍務に就きうる資力を持った富裕者層を指すようになった。前3世紀末には元老院議員階層とは明確に分離され商業や金融業、徴税請負人にもっぱら携わるようになり、さらにグラックス兄弟の改革のなかで、元老院議員階層に対抗する一つの階層として組織、覚醒された。ディオクレティアヌス帝の時に元老院議員身分の拡大に伴って、騎士身分上層は元老院議員身分に吸収されたため、一つの身分としての意味はほとんど消滅した。

キリスト教徒迫害

2世紀まではネロの迫害を例外としてローマ皇帝による迫害はなかった。主にキリスト教徒を無神論者として嫌悪した民衆の主導によって行われ、皇帝はキリスト教徒であることが死に値するとして迫害を黙認しながらも、探索を禁じていた。3世紀には偏見は次第に薄れ民衆による迫害は収まったが、危機の時代を迎えて異教が復活するなか、皇帝がローマ市民に神々崇拝義務を課したため、デキウス帝、ウァレリアヌス帝、ディオクレティアヌス帝による迫害が起こった。迫害による殉教者も出たが棄教者も少なくなく、また多くの皇帝は迫害を行わなかった。313年のミラノ勅令で終結。



共和政(ローマ)

ローマ共和政の時代は前509の王政の終焉から前27の帝政の樹立に至るまでの時期にあたる。当時国家は、元老院議員たちの集団指導体制下にあった。共和政期は初期、中期、末期の3期に区分され初期は前3世紀後半のイタリアまで、中期はグラックス兄弟の改革まで、末期は一般に「内乱の1世紀」と呼ばれる混乱期に相当する。中期共和政期にローマはティベル川畔の一都市国家から地中海世界全体を支配する巨大国家へと急激に成長を遂げたが、その拡大は同時に様々な矛盾を国家にもたらし内乱へと至った。この内乱収拾過程で事実上の皇帝が現れ、共和政は終わった。



グラックス兄弟の改革

ローマ共和政期の政治家であったグラックス家の2人の兄弟によっておこなわれた社会改革運動。兄のティベリウスは、前133年の護民官選出後、当時問題になっていた中小農民の没落に起因する国防力の低下や、有力者による公有地占有とそれに伴う奴隷制大農場の進展を防ぐため農地改革を試みた。リキニウス・セクスティウス法を厳格に実施、500ユゲラを超える公有地の占有を禁じ、制限面積を超えた分は国家が没収し、土地を失った市民に再分配した。この改革は一定の成果を見たが、元老院と対立、反対派に暗殺された。弟のガイウスも同じく護民官として、前123年以後、兄の遺志を継いで改革を行った。農地改革だけでなく、首都民衆に対する穀物の低価格化を図った。イタリアの同盟市市民にローマ市民権を付与することに失敗、混乱に乗じた反対派元老院議員の武力攻撃を受けて自殺に追い込まれた。ローマはこの後、内乱の時代に入っていった。



クリスマス

キリストのミサの意で、キリストであるイエス降誕の祭日。12月25日。聖書には日付に関する記述はないが、当時広まっていたミトラス教が太陽神の誕生日とする12月25日を、4世紀以降、キリストの誕生日として祝うようになった。馬小屋の飾りつけの習慣はアッシジのフランチェスコから始まる。

君主論

マキャヴェッリの政治論文。全26章。1513年に執筆、32年に死後出版。メディチ家に献呈されたが読まれた形跡はない。君主はライオンの力とキツネの狡知に学ぶべきで、善悪を超越し、力による国家統一を果たすべきであると主張。これが当時、目的のためには手段を選ばない権謀術数として悪評を招くが、現在では、宗教や道徳から解放された政治の力学を説いたものとして近代政治学の出発点とされる。



古代イタリア人(イタリキ)

インド=ヨーロッパ語族でイタリア半島に南下した人たちが先住民族(地中海人種)と融合してイタリキになりました。→この点については、諸説いっぱい!(^^)! 彼らのうち、半島中部のラティウム地方に定住した人たちをラテン人と呼びます。ラテン人は都市国家ローマを建てました。彼らの話ことばがラテン語で、のちにローマ帝国の公用語になりました。イタリア語・フランス語・スペイン語が派生して出来ました。