ローマ共和政末期に有力政治家3人が相互協力によって国家を独占的に支配した体制。2度おこなわれた。第一次は、カエサル、ポンペイウス、クラッススの3人の私的盟約に基づくもので、前60年に成立。しかし、前53年、クラッススがパルティア遠征で戦死し、その一角が崩れると、カエサル、ポンペイウスが対立、戦争に至り、後者の敗退で終わった。第二次はオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスの3人が「国家再建3人委員」に公式に就任し、前43年に成立。オクタウィアヌスの強要でレピドゥスがまず引退されられ、続いてオクタウィアヌスとアントニウスが対決、後者が敗北することで終わった。 ※図は米映画『クレオパトラ』1963 ポスター カエサルとアントニウス
1882-1915 ドイツ・オーストリア・イタリアの間で結ばれた秘密軍事同盟。1879年に結ばれていたドイツ・オーストリアの秘密軍事協定にフランスと敵対的となったイタリアガ接近して結ばれた。これにより、ドイツを中心とした三国同盟とイギリス・フランス・ロシアのブロック(後の三国協商)の色分けが鮮明となった。第一次世界大戦が勃発するとイタリアが三国協商側に立ったために解消された。
エトルリアの王を追放したあと、都市国家ローマ内部では富裕な有力者層が貴族パトリキとして、その他の者を平民(一般市民・農民)プレブス
として差別した。しかしローマを取り巻く情勢によって結束を固める必要があった。エトルリア人との戦闘の継続、同じラテン系の種族が建てた都市国家の進出などへの対応が迫られるなか貴族と平民の差を縮めるために12枚の銅板に表示された初めての成分法。青銅版が掲示された場所はローマ:フォロ・ロマーノのセプティミウス=セヴェルス皇帝の凱旋門の背面にある壁(市役所横の坂道を下ったところ)と言われています。
ルネサンス期における古代ギリシア・ローマ文化の復興に伴う人間中心主義の思想。「人文主義の祖」と言われるペトラルカは、古典研究を通して中世の硬直化したスコラ学を批判し、「フマニタス(人間性)」を中心にすえた「ストゥディア・フマニタティス(人文学研究)」を訴え、ピーコ・デッラ・ミランドラはこれをさらに発展させ『人間の尊厳について』で、人間は「自由意志」によって自分の運命を自由に選ぶことのできる存在
と主張した。これこそルネサンス的人文主義的人間観の宣言である。
共和政期以来、属州民に地租とともに課された直接税。イタリアの住民は前167年以後免税。詳細は不明で地域ごとの慣習などにより実態には差があった。例えば帝政期シリアでは男性は14歳から、女性は12歳から65歳まで課されており、エジプトでは男女を問わず14歳から60歳まで課されていた。ディオクレティアヌスの時に地租と結合され、全帝国の住民に課されるようになった。
1935年4月、ナチス・ドイツへの対抗から英仏伊の間で結ばれた提携関係。同年3月、ヒトラーがヴェルサイユ条約を破ってドイツの再軍備を宣言すると、これに脅威を感じた英仏伊の首脳が北イタリアのストレーザで会議を開き、同条約維持の他、国際問題解決のための共同行動を確認しあった。しかし、同年10月、イタリアがエチオピアに侵攻してドイツに接近したため、三国の提携関係は破綻した。
ローマ共和政末期の前73年にトラキア出身の剣闘士スパルタクスが起こした奴隷反乱。カプアにあった剣闘士養成所から仲間とともに脱走したスパルタクスに
近隣の奴隷たちが加わって大規模な奴隷反乱へと至った。一時は、7-12万を数える大軍となり、ローマ軍を幾度か破り、イタリアを縦横に略奪して回ったが最終的にクラッススによって前71年に撃破された。敗残兵の一部はポンペイウスが鎮圧
1860年にガリバルディが組織した義勇軍。「赤シャツ隊」ともいう。ブルボン朝ナポリ王国で反乱が起こると、5月6日、2隻の汽船に分乗してジェノヴァ近郊クルトワを船出し、同月11日にシチリア西端のマルサラに上陸。島民の反乱に助けられながら同月30日、パレルモ解放。サルデーニャ王国首相カヴールの制止も聞かずにイタリア本土に上陸し、9月7日、解放軍としてナポリ入城を果たし、かくして南イタリアを制圧した。
1831年のカルボナリの革命失敗後、カルボナリ党員だったマッツィーニが亡命先マルセイユで結成した結社。共和主義による国家統一の高い理念を掲げ、カルボナリ党員を吸収しつつ、
機関紙『青年イタリア』を発行するなど、リソルジメントを秘密結社の枠を越えた広範な大衆運動にする。各地で蜂起を繰り返し1848-49年革命(ローマ共和国樹立など)を準備するも、弾圧されて衰退。49年以降はカヴールの現実路線に道を譲る。