チオンピの乱

フィレンツェでは商工業者組合「アルテ」に所属する有力商人が政治の実権を握っていた。不満をつのらせた「チョンピ」と呼ばれる毛織物に従事する労働者たちは1378年7月、市庁舎を包囲し市政府の代表を辞職に追い込み、一定の割合で市政府に参加することが認められた。しかし、たちまち手工業者と商人層が弾圧に乗り出し、同年8月チョンピを武力で壊滅させてしまった。1382年には手工業者たちも排除され有力・新興商人が実権を握った。チョンピの乱は14世紀におけるコムーネの危機の象徴だったが、その後のフィレンツェでは旧支配層の復活と権力の集中が進行、メディチ家の独裁的な支配体制が成立することになる。



トリエステ問題

1920年ラパッロ条約でイタリア領となったトリエステ地域には多数のスラブ系住民が居住しファシズム時代には強制的なイタリア化政策がとられていた。

1945年5-6月、反発したユーゴスラヴィアのパルチザン部隊がトリエステを占領イタリア系住民への迫害も生じた。1945年6月占領軍との折衝の結果、トリエステ地域は英米軍管轄A地域とユーゴスラヴィア施政下のB地域に分割。1954年に至って漸く、イタリア、ユーゴスラヴィア及び英米間合意によってトリエステの施政権はイタリアに返還された。東部国境の最終的解決は1975年まで待つことになった。