旅行者は美術・絵画の国というと、イタリアを連想します。実際、イタリアには、比較的狭い国土でありながら世界の最も重要な美術作品の60%近くが存在しているだけでなく、国外の著名な美術館にもイタリア美術の豊富なコレクションがあり、それぞれの所蔵品の中でも、ひと際かがやいています。いかに高い密度で絵画・彫刻作品が存在するか、街歩きをする旅行者は誰でも知るところです・・

このコーナーではイタリア絵画の系譜を、旅人が訪ねるはずの美術館・絵画館・教会と、その収蔵作品に注目しながら整理していきます。


(1)イタリア絵画の素材と画法

モザイク⇒色のついた鉱石の破片や大理石、陶片、素焼きの土、ガラスなどの細片を下絵に基づいて配列する。前三千年頃の古代メソポタミアから存在するが

 紀元後1-2世紀のローマやポンペイの邸宅壁画にも使われる。圧巻は5-6世紀の初期キリスト教時代のモザイク画(ラヴェンナのサン・ヴィターレ教会)で、あたかも筆で描いたようななめらかさを見せる。聖堂の内陣、円蓋などの湾曲した壁面は、平面より小片が接着しやすく、小石にあたる光が乱反射して色彩に一層の輝きを与えている。11-13世紀にかけても盛んに制作された。

(ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂)

フレスコ画歴史的にはモザイクより古くから存在していたが、その技法が表現内容とともに最もすぐれた時期といえば、イタリア・ルネッサンスの時期で、芸術家の最も熟達した絵画技法となった。北方ヨーロッパのように太陽光が少ない湿気の多い国では、窓が広く、ステンドグラス芸術が発達したが、それとはまさに対照的にイタリアのような光線が多い乾燥した国では、教会や宮殿の壁は面積が広く、白い平面だったためフレスコ画が描かれることになった。フレスコとは「新鮮な」という意味で、漆喰が湿っているうちに水で溶いた顔料で描く技法で、絵具が漆喰の表面と一体化して壁面の一部になるので、壁面さえ壊されなければ何千年ももつという特性がある。漆喰の中を通った水は石灰水となり空気中の炭酸ガスに触れると、炭酸カルシウムの膜となって顔料が保護膜につつみこまれる。制作手順:壁に砂、石灰で下塗りをする→二度目の下塗りのあと表面を平らに削る→下図を描く→石灰の漆喰で仕上げ塗りう・・この四つの過程を経てから絵の具で描く。一日で彩色ができる面積は限られている上に、後で修正ができないので綿密な計画と準備が必要となる。フレスコ画の最高傑作はミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井画・壁画である。



テンペラ⇒卵で顔料を練って(かきまぜる:テンペラーレ)、つくった絵の具。卵だけでなく膠、アラビアゴムなどの顔料を練った水性絵具の総称として用いられている。絵具の乾きが速く、色調も明るく、耐久性にも富む半透明の絵肌を作るが、重ね塗りや厚塗りができない、陰影表現には向かない、という理由で廃れていった。13-14世紀の祭壇画(板絵)に多く使われ、シモーネ・マルティーニの《受胎告知》(ウフィッツィ美術館蔵)が一例である。石膏地の上に金箔を施し、さらに表面を研磨して輝き与え、その表面にテンペラの彩色を用いている。

油彩画⇒この技法こそ、絵画をして芸術の最高の表現とレオナルド・ダ・ヴィンチに言わしめたものである。『モナリザ』をはじめ、ラファエルロ、ティツィアーノなどの名作はすべてこの技法でつくられた。顔料を植物性の乾性油によってペースト状に煉り合せた絵具を用いて、麻や木綿などのカンヴァス、板などに描く技法であるが、色調や色の濃淡が簡単、光沢、艶消し効果、不透明、半透明などの使い分けができる、厚塗り、薄塗り、平塗り、重ね塗りなど自在であり、その多様な表現により、写実性が深まり、明暗の微妙な変化が可能となった。この技法の最初はイタリアではなく、フランドル(ファン・アイク兄弟)で確立したと言われている。レオナルドはスフマート用法で微妙なグラデーションを出し、ティツィアーノは絵具の厚塗りで重厚さを出した。17世紀になると写実性よりも手の動きが優先され、それが絵画の個性として評価されるようになった。



(2)エトルリアの絵画


エトルリア人が独自の文化と美術を誇ったのは前8世紀から前5世紀頃だった。同時代のギリシアの絵画がほとんど現存しないのに対し、エトルリアの墓から華やかな壁画(絵画作品)が多数発見されている。埋葬後も死者は墓の中で暮らし続けると考え、富裕層は大きな墳墓を築き、その内部を現世的なもので満たし、墓室いっぱいに現世の壁画を描かせた。タルクィニアの通称「豹の墓」では、奥壁の破風部分に2頭の豹が、その下には宴会の様子が描かれている。三つの寝椅子に寝そべっている者のうち、肌が白く、上半身を衣で覆っているのは女性であり、これは女も宴会に出席することが許されていたエトルリアならではの場面である。奥壁に向かって右の壁面には楽士たちがのびのびとした筆致で描かれ、大きな杯を手にした男が踊るように歩を進めている。この墓の建設者は永久に続くにぎやかな宴会によって死者を弔い慰めようとした。


(3)古代ローマの絵画

「ギリシア人は芸術家、ローマ人は職人である」といった言葉があるが、まさにローマ美術(建築・彫刻・絵画)はギリシア人の創作活動からの模作、借用から始まったと言われる。ローマ人はその建国の由来すらギリシア神話に結びつけて考えていた。とは言え、ローマ美術を軽んずることではない。例えば建築においては公共建築を重視し、ギリシア人の用いなかったセメントやアーチを大量に大規模に活用したように、芸術を現実の中に生かすことにおいてはギリシア人をはるかに凌駕していた。キリスト教以前の絵画作品としてはポンペイの壁画(以外では断片的にしか残っていない)が代表で、前2世紀から西暦79年の火山爆発による埋没までの約300年間にわたるローマ絵画の編年的基準ともなっている。ギリシア絵画の作風や傾向は南イタリア(マグナ・グラエキナ)には絵付けをした壺絵、絵画に近い浮彫りで多く見られるが、壁画についてはポンペイやエルコラーノの出土品から推測することができる。


マグナ・グラエキナの絵画

前4世紀以降の墓室や石棺の内側に描かれた絵画作品が残っており、中でもパエストゥム近郊(サレルノ郊外)で出土した《飛び込む人の墓》《宴会図》が絵の質の高さと年代の早さにおいて際立っている。人体はバランスよく正確な輪郭線で描かれ、人物の配置やポーズは同時代のアテネ(アッティカ)陶器とそっくりである。この頃、南イタリアで生産された陶器を飾る絵の主題には人気の高いギリシア演劇が取り上げられた。

ポンペイ・エルコラーノの壁画

モザイクやフレスコ画によってギリシアの神話や歴史をモチーフにした作品が多く残された。ポンペイの「秘儀荘」の壁画はディオニュソスとアリアドネーの神秘的な結婚を描き出している。真赤に塗り込められた背景と、緑の奥行を示す地面によって形成されるせまい空間内でくりひろげられ、その単調な場面構成が独特な効果を生み出している。ギリシア絵画の影響がみられるモザイク作品もポンペイの住居の床から発掘されている。アレクサンドロスとダレイオスの「イッソスの戦い」を描いた横幅約5mの作品は、あるギリシアの画家がアレクサンドロスの遺将の求めに応じて描いた作品を原画を模してこのモザイクは作製された、と考えられている。ヘレニズム時代の浮彫彫刻と同じような動きの激しさを見ることができる。



カタコンベの壁画

ローマの絵画といえば、キリスト教公認前のキリスト教徒の集会所・礼拝所・地下墓所としてのカタコンベの壁画を忘れることはできない。キリスト教徒への迫害が激しくなるにつれ、その構造も複雑になり入り組んだ坑道は迷宮のように張りめぐらされた。カタコンベという名称は墓所が集中していたアッピア街道沿いの一地名から由来しているとも言われている。坑道の壁面には壁画や彫刻がほどこされている。初期キリスト教美術の発生を見ることができるが、最初からキリスト教独自の図像があったわけではない。教義とは無関係な装飾模様やギリシア・ローマ神話の女神が描かれている。迫害の激しくなった3世紀末頃からキリスト教に関係のある秘密のシンボルが次第に形成されていった。鳩がキリストの洗礼、魚がキリストそのものを表し、羊の群れの中にいる若い牧者や羊を背負う牧者などいわゆるよき羊飼いの図像も現れた。

ローマのプリシッラのカタコンベ壁画《燃えさかる炉の中の三人のヘブライ人》⇒奥行のある空間は無視されて、礼拝者たちはみな同じポーズをとり、無表情で生気を欠いた顔つきをしている。正面を向いて両腕をほぼ水平に上げ、足を八の字にして立っている。チェコ出身の美術史家ドヴォルジャックは次のように言う「この三人は地面に足をつけてはいない。この空間は宗教的に理想化された自由空間なのであって、彼らが無表情に見えるのは、彼らが自分の意志によって動いているのではなく、より高度な秩序を形成する力によって結ばれているからなのである。現世を超越していることを強く印象づけ、彼らが平面的に描かれているのは、肉体を欠いた精神的共同体を形成しているからである。カタコンベの壁画を見ている人たちも、この共同体の一員であることを訴えかけている。つまり純粋なキリスト教的精神の理念が表現されている。」



風景画と静物画

古代ローマの絵画に、ヘレニズム美術の影響下、風景画と静物画という新しいジャンルが誕生した。例えば、『オデュッセウス風景画』には風景のなかに点景として神話の登場人物が描かれ、幻想的で神聖な風景画となっている。神話的風景画が建物の壁面に好んで描かれたようである。皇帝アウグストゥスの右腕アグリッパの邸宅(ファルネジーナの別荘)の長い廊下の壁面に風景画がいくつも描かれている。クリーム色の地にセピア色を基調とした線で働く人物、家畜などが繊細に描かれている。静物画はポンペイの壁画に見ることができる。「ユリア・フェリクスの家」(円形闘技場近く:地図B-6)の庭に面した部屋の壁面の上段には小さなイチジクでいっぱいの壺、リンゴ、ブドウ、ザクロが盛られたガラスのボウル、小型アンフォラが描かれた静物画がある。果物やガラス器の質感表現は画家の手腕が発揮されるところであり、吹きガラス生産のはじまりが紀元後1世紀だったことを思えば、新鮮なモチーフとしてガラスは描かれたと思われる。



(4)中世の絵画

中世の絵画・・・美術史家ヴァザーリ(1511-74)によれば、「中世」という概念が誕生したのは「ルネサンス」以後、つまりルネサンス期の人々は古代ギリシア・ローマと自分たちの時代の中間に存在する時代を「中世」と考えた、ということです。その始まりは西ローマ帝国の滅亡した476年、終わりは東側では東ローマ帝国が崩壊、西側では英仏百年戦争が終結した1453年、とされます。この一千年間、大量に建設された教会の内部はフレスコ壁画やモザイク壁画によって豪華に装飾されました。天井画には「十字架」や「神の子羊」といったキリストを意味する寓意的図像、四隅には「四季」「東西南北」「四福音書のシンボル→人:マタイ、牡牛:ルカ、獅子:マルコ、鷲:ヨハネ」が描かれます。内部の豪華さは現世を離れた「神聖な世界」を印象づけます。


イタリアで見られるビザンティン美術の代表:モザイク画

6世紀、ラヴェンナはイタリア半島におけるビザンティン帝国の総督府だったこともあって、サン・ヴィターレ聖堂にはモザイク画が最もよく残されています。(546-547年制作)8-9世紀の東ローマ(ビザンティン)帝国における偶像破壊運動から免れる地理的位置にあったことも幸いしました。



《皇帝ユスティニアヌスと臣下たち》と《皇妃テオドラと侍女たち》がアプシス下部に祭壇を挟んで向かい合うように配され、上方に描かれる天上のキリストに捧げるミサへと向かう様子が描かれています。(皇帝夫妻がラヴェンナを訪れたことは一度もないので史実ではありません。)

《皇帝ユスティニアヌスと臣下たち》

中央には光輪をつけ皇帝冠を戴いたユスティニアヌス帝が黄金の聖体皿を手にして立つ。紫の上衣で身を包み冠から履物に至るまで宝石や真珠などで豪華に飾られている。

右に並び立つのは司教マクシミアヌスで黄金の衣をはおり右手に宝石で飾られた黄金の十字架を持つ。さらにその右側には頭長を剃髪した2人の助祭が福音書と香炉を手に付き添っている。皇帝とマクシミアヌスの間に顔をのぞかせる人物は建設資金を全額奉納した銀行家ユリアヌスであるとみなされている。

皇帝の左側に立つ壮年の人物はラヴェンナを奪回した将軍ベリサリウスでその左の青年は皇妃テオドラの孫とみなされている。後方に控える衛兵たちは槍と盾を手にして立つ。

右腕を曲げた人物が多く、右端の助祭の手により、画面右の聖堂奥への方向性が認められる。

《皇妃テオドラと侍女たち》

画面中央には光輪をつけ宝石や真珠で飾られた冠を戴いた皇妃テオドラが黄金の聖杯を手にして立つ。テオドラは小柄であったと伝えられるが他の人物よりも大きく描かれている。紫の上衣の裾には《東方三博士の礼拝》の場面が金糸で刺繍されている。右隣の女性は将軍ベリサリウスの妻アントニナで左端の廷臣は左手でカーテンを押し上げ、一行を聖堂内へと導いている。 

二枚のパネルの人物たちはカタコンベの壁画で見られたように正面を向いたほぼ左右対称のポーズで表現され、足元は全員「八の字」形をしており、「高度な力」によって「自由空間」に浮遊しているように見える、しかし彼らの顔つきは強い精神性を示し、ミサへと向かう「現世」の姿が表現されている。カタコンベの伝統を継承しながら「高度な力」と「自分の意思」、つまり「聖と俗の折衷」というビザンティン美術独自の理念が示されている、と言われ、この流れは「イタリア・ルネサンス美術」の形成に影響を与えることになる。


ロマネスク・ゴシックの絵画

ロマネスクは10世紀~12世紀、ゴシックは12世紀後半~13世紀中期に全西欧にひろがった美術の様式名で、時代区分でもあります。元来は建築様式を指していましたが、現在では彫刻・絵画の分野も含む美術用語として使われています。ロマネスク時代の技法は乾いた漆喰の壁面に水で溶いた顔料を塗布する「セッコ技法」でした。この技法は長期の保存が難しく現存する例は稀少です。例⇒ナポリ近郊カプアのサンタンジェロ・イン・フォルミス聖堂にはビザンティン絵画の影響も伺える壁画があります。 

ゴシック絵画はその建築様式(垂直上昇性)とともに発展したステンドグラスによるので、イタリアに際立った作品はありません。


(5)ルネサンス

イタリア人は15世紀を文化史の時代区分として「クワトロチェント=1400年代」と呼びます。世界中に遍く知られる「ルネサンス美術」が誕生した世紀です。この美術の革新を可能にした歴史の流れは12世紀からすでに展開していました。北イタリアの諸都市では自治政府が成立し、封建領主たちと戦い、

結果として封建貴族たちは旧来の特権を放棄し、都市生活に適応していきました。また、教皇と皇帝の主導権をめぐる争いに巻き込まれることで、むしろ各都市は独立性が高まっていきました。都市内部では商業と手工業が要となる新しいタイプの社会が出現、「時間」「空間」に関する新しい概念が現れてくる中で、イタリア美術が新生し、西洋美術全般を牽引していくことになったのです。13世紀末、イタリアは商工業活動によって富を蓄積、都市国家コムーネが発展、文化的・政治的にヨーロッパの中心となり、特にフィレンツェは最大の都市になりました。フレスコ画がステンドグラスに代わって芸術の主流として台頭してきた時期でもあります。

世界の中心に人間が位置づけられる考え方「人間中心主義」(ヒューマニズム)のおかげで、美術は中世世界のように神を中心とした表現から人間を中心とした表現へ移行しました。絵画・彫刻だけでなく建築もゴシックのように天高く構築されるのではなく、「人間的な規模」(ヒューマン・スケール)に縮小されることになります。


絵画分野の先駆者は誰でしょう?上の表のトップにあるジョット(1266?-1337)になりますが、もう一人忘れてはいけない人がいます。「イタリア美術の父」と呼ばれるチマブーエ(1240?-1302?)はジョットの師匠でした。彼はビザンティン美術の伝統を受け継ぎながらも新しい精神に基づく活気ある表現、例えば人物の表情、衣服のリアルな表現など中世絵画にはみられない新たな感性の作品を残した最初の画家になりました。

荘厳の聖母・・アッシジ:サン・フランチェスコ聖堂下堂のフレスコ画  サンタ・トリニタの荘厳の聖母:ウフィツィ美術館  パントクラトール(全能の神)のキリスト(左手に聖書、右手は祝福の仕草):ピサ大聖堂アプシスのモザイク

 


「チマブーエの弟子ジョット」の伝説    ギベルティ『備忘録』1447

チマブーエがフィレンツェからボローニャに向かう途中、コッレ・ディ・ヴェスピニャーノの村を通りかかると、一人の少年が地面に座り込み、石の上に一頭の羊を描いていた。幼いのにたいへん上手く、少年にいたく讃嘆し、名前を尋ねると「ジョットといいます。父の名はボンドーネです。あちらの家にいます」と答えたので、チマブーエはジョットとともに父の許に行き、自分に息子を託してくれるように頼んだ。父は貧しかったので、チマブーエにジョットを預けた。こうしてジョットはチマブーエの弟子となった。

 

「少年ジョットのいたずら」  ヴァザーリ『芸術家列伝』1550

チマブーエの家にいたころ、、師チマブーエが描いた人物の鼻先に本物そっくりの蠅を描いたことがあった。チマブーエは外出から帰って来て仕事を続けようと思い、蠅を追おうとして一度ならず手で払ったが、蠅が逃げない。それではじめて蠅が実物でないことに気がついたという。


ジョット絵画の革新・作品


  1. 対象を描くのにヴォリューム感と彫刻のような立体感を与えた。遠近法的空間表現を実現した。あらゆる物をたいへん自然らしく描いた。
  2. 物語表現において、各場面は時間性をもち、前後の時間の流れの中にしっかりと位置を占めている。登場人物の表情や仕草には強い現実感がある。
  3. ビザンティン様式を捨て、古代ローマ風の様式を蘇生させ、現代風に改めた。

ジョットへの賛辞 

「チマブーエは絵画界で王座を占めたと思っていたが、いまではジョットが名声を得たために前者の影は薄れてしまった。」 ダンテ 『神曲:煉獄編』

「ジョットが描くもので本物に似ていないものはなかった、いやむしろ本物と全く同じに見えた」 1358頃 ボッカッチョ 『デカメロン 六日目第五話』

「絵画芸術をギリシア語からラテン語へうつしかえた。」 1390頃 チェンニーノ 『絵画術の書』


革新的な特徴  スクロヴェーニ家礼拝堂 パドヴァ

羊飼いのもとに帰るヨアキム》 

ヨアキムの帰還を迎える犬の嬉々とした動き、少し小さめだが多様な動きをする羊の群れが自然らしく描かれる。

死せるキリストへの哀悼》 

キリストの手を取ろうと屈みこむ青いマントの聖母の姿勢とほぼ平行に腰を折り、両腕を背中の方へ反らす若いヨハネの身振りなど、哀悼の激しい身振りは古代ローマ

彫刻の要素を取り入れている。

聖アンナへのお告げ》

跪くアンナに天使が窓から上半身のみ入り込み、マリアの誕生を告げている。遠近法による奥行が明確に示され、屋外のテラスの下に座り、糸巻きにいそしむ侍女の姿勢やしぐさが自然らしい。屋根の三画破風にはホタテ貝の殻のなかに父なる神を描き、その貝殻を左右から有翼の天使が支える浮彫が描かれている。これは古代ローマの浮彫から着想を得ている。



13-14世紀 フィレンツェ絵画と並ぶシエナ絵画  ドウッチョ:『荘厳の聖母』

イタリアの都市国家の多くは14世紀までに共和政から君主政に移行していたが、フィレンツェとシエナだけは共和政を存続させていて共同体意識も高く、芸術活動の拠点だった工房への経済的支援も高いものがあった。司教座と君主の宮廷が二大権力であり、ドミニコ会・フランチェスコ会などの托鉢修道会が第三の勢力として布教活動を展開した。シエナとフィレンツェは12世紀から武力衝突を繰り返していたが、芸術文化の面でも競い合った。アッシジの聖フランチェスコ聖堂ではフィレンツェ派(チマブーエ、ジョット)とシエナ派(シモーネ・マルティーニ)の画家たちが壁画装飾を描いた。フィレンツェ派のジョットに匹敵する最初のシエナ派画家はドゥッチョ(1250-1318)である。代表作『荘厳の聖母(ルチェライのマドンナ)1285』(ウフィツィ美術館)は大型の板絵で、ビザンティン風の図式的な構図や描法からの脱却を試みている。イエスを膝に抱いて玉座に座すマリア、玉座に寄り添う天使たち、跪いて玉座を支える天使6人中4人は宙に浮いている。色違いの衣装をつけた天使たちは垂直方向に並んでいる。聖母の体には陰影表現が用いられているが彼女のマントを縁取る金糸の縫い取りのリズムが彼女の姿勢を優美にしている。シエナ大聖堂の主祭壇画『マエスタ』は3mを超える大作だが、マドンナ像は『荘厳の聖母』との類似性を見て取ることができる。


シエナ派:シモーネ・マルティーニとロレンツェッティ兄弟

ドウッチョと同じく、シエナ市のために仕事をしたシモーネは「シエナの画家たちの中でもっとも優れたいた」と評される。彼の活動範囲はアッシジ、ナポリ、ピサ、そして南仏アヴィニヨンに広がり、地方画家の域を超えている。アヴィニヨンでは詩人ペトラルカと親交を深め、ペトラルカは詩集『カンツォニエーレ』の中で二篇のソネット(77-78歌)をこの画家に捧げている。シエナ市庁舎に描いた『マエスタ』「荘厳の聖母」(1315)は装飾性に富んだ繊細優美な表現を見せている。縁取りの枠には成人のキリスト、四福音書記、四大教父、などが描かれたメダイヨンが見られるが、その間に白と黒のシエナ市の紋章と「シエナの雌狼」、市民結社ポポロの紋章(後ろ脚立ちの獅子)が配されている。画面中央には玉座の聖母子(幼児キリストは左手に旧約聖書「世を裁くものよ、正義を愛せ」を記した巻物を開いている)、起立した十二使徒、跪く四人のシエナ市の守護聖人が描かれている。『マエスタ』(立法の理念)の向かい合う壁には、やはりシモーネによるシエナの傭兵隊長『グイドリッチョ騎馬像』(司法の理念)がある。


シモーネの代表作:シエナ大聖堂のために制作された祭壇画『受胎告知と二聖人』(1333) 大天使に、神の子を身ごもっていると告げられたばかりのマリアが、いったいわが身に何が起こったのか、と身を引く。斜めに置かれている椅子の空間性と金糸がかたどる衣服の流麗な輪郭線によって聖母の姿勢が効果的に示され、マリアの当惑ぶりを伝えている。受胎告知を中心におく祭壇画の最初で、大天使ガブリエルは白ユリ(純潔の象徴)を持つのが通常だが、オリーブの小枝を手にしている(百合の花は床に置かれた壺にある)。百合はライヴァルのフィレンツェの紋章であるためオリーブになっている、左に立つ聖アンサヌスが白と黒のシエナの旗を持っている、


ピエトロ・ロレンツェッティは遠近法を駆使して三連祭壇画『聖母の誕生』(1342)を制作した。マリアの父ヨアキムの待つ前室とその背後の空間表現が革新的であり、ベッドの布、産湯を注ぐ洗面器、床模様など愛情を込めて丹念に描いた。弟のアンブロージオ・ロレンツェッティはシエナ市庁舎の「ノーヴェの間」(当時、9人ノーヴェが政務を担当していた)にフレスコ画『善政の寓意』『悪政の寓意』『善政の効果』『悪政の効果』を描いた。『善政の寓意』には中世都市シエナの理想とする政治理念が表現されている。画面左の女性像(正義の擬人像)の周りに「世を裁くものよ正義を愛せ」の文字が刻まれ、女性が支える天秤の皿の上に描かれた二天使の一人は槍、指揮棒、金庫を二人の市民に手渡し、別の天使は皿の前に跪く一人(個人の利益を優先させた)の首をはねながら、もう一人(公共の利益を優先させた)に冠を授けている。画面右手の玉座に座る白髭の人物(都市国家シエナの擬人像)が右手に束ねる綱は下部に描かれる24人の男性市民と繋がる。ノーヴェ(9人)体制以前のシエナの共和政(24人政府)を象徴している。「都市国家シエナ」の擬人像は白黒の市の紋章の色の衣を着て、足下にはシエナの雌狼と双子が描かれている。この壁画には、多くの人々が一致団結して公共のために正義を貫く、という為政者の想いが込められている。


『善政の効果』には正義に導かれた施政によって、市街や郊外の田園が、いかに安全でのどかな日常生活が送られるようになったかが描かれる。市街では馬に乗る輿入れの花嫁、踊る男女、職人たち、学校の講義の様子が見られ、田園では農民が農作業に勤しみ、農作物や家畜を売りに町をめざし、商人が品物を運搬する様子がいきいきと描写されている。この壁画は近世最初の都市景観図と風景画と呼ぶこともできる。シエナの為政者たちの理想がアンブロージョの壁画によって視覚化され、繁栄の証しとなるはずだったが1348年、ペストに襲われる。都市人口の半分以上が犠牲となって、ノーヴェ体制は崩れ、ピエトロとアンブロージョのロレンツェッティ兄弟もペストにより同年没したため、シエナ絵画も停滞してしまう。